Chapter2:正しい街
蒼、碧、朱、紅の四人で暮らし始めてひと月くらい後、
碧以外の三人でダイニングでお茶をしていると、聴き慣れないピアノの音が聴こえてくる。
朱が蒼に尋ねると、年に一度だけ、碧がピアノを弾くのだという。
実はその日は碧が別れた彼女の誕生日で、毎年必ず彼女の好きだった「幻想即興曲」を奏でるのだ。
彼女の名は、水蓮。碧に「自分は「S」の人間になる」という言葉を残して去って行った女性だった。
翌日、自宅の電話に珍しく入電する。相手は、碧の父親の秘書。
碧の父親の財閥がパーティーをするため、碧と蒼に出席をして欲しいという。
電話に出た蒼は、言葉を濁す。
碧は父親を憎んでおり、何度要請されようとも、パーティーに出席することはなかった。
有無を言わせず、必ず碧様もお連れするように、と冷たく言い残して切れる電話。
案の定、内容を告げると碧は激昂し、自分は出席するという蒼に対しても激怒し、
そのまま自室へと引き上げてしまう。
碧には父親を憎んでいる理由があった。
幼い頃は、有能な父親のことを尊敬していた。
碧の母親はノルウェー人とのハーフであったが、生まれつき病弱であった。
特に碧を産んでからは寝込むことが多くなり、いつも父親や碧に家のことができないことを謝罪していた。
だが、使用人たちにも優しく穏やかに接する母親のことが、碧は大好きだった。
碧が中学生になり、学校でも学業・スポーツともに目立つ存在として人気者になる頃には、
碧の母の病気は一層悪化していた。
しかし、父親はそんな母親を顧みることなく、事業に邁進していた。
そして、母が危篤になったときも商談をしており、中断して見舞うことさえなかった。
そんな父親に絶望し激昂する碧に、父親は淡々と告げたのだった。
「妻の代わりの女はいくらでもいる、だがこの商談の代わりは他にはない」と。
父親を殴り倒し、母親の部屋に戻った時には、既に彼女はこと切れていた。
その時の商談の相手が「S」であり、父親の会社の主な取引先が「S」であることを知った碧は、
その後、単独で「S」を粛清しようと試みる。
だが、あえなく失敗に終わり、逆に殺されそうになったところを、
蒼の父親であり、当時の「組織」のボスであった珀に救われる。
碧から事情を聞いた珀は碧を「組織」に誘い、あまつさえ自分のパートナーになるよう言うのだった。
こうして碧は「組織」の一員となり、珀のパートナーとなった。
それゆえ、何度父親から体面を保つためにパーティーに出るよう命令されても、
決してその命令に従うことはなかった。
自分よりも立場の弱い「養子」である蒼が父親の命令に逆らえず従い、
そのたびに酷く心を痛めて帰ってくることが分かっていても、譲ることはできなかった。
パーティー当日になり、蒼は迎えの車に乗る。やはり碧は同伴してはくれなかった。
嫌味を言う運転手を、ひとりの男性が一喝する。
彼は碧が幼いころから教育係兼執事を務めていた「爺や」と呼ばれる男性だった。
彼は今回のパーティーの主賓が「S」、それも現内閣官房長官だと伝え、ある物を蒼に渡す。
蒼の父親の形見というそれは、細い金属製の「絃」だった。
それも、これを蒼に渡すようにと爺やに預けたのは、他ならぬ義父―碧の父親だという。
義父の真意が理解できないまま、蒼はパーティー会場である屋敷にたどり着く。
迎えた義父は、相変わらず冷たかった。「絃」の意味を聞くことも叶わず、やがてパーティーは始まる。
遅れてやってきた官房長官は他にもう一人男を連れていた。
その初老の男は好色的な目で蒼を嘗め回すように見る官房長官とは違い、紳士的に蒼に接した。
パーティー終了後、「S」の面々と義父、そして蒼だけが会場に残される。
そして、この場に蒼が呼ばれた真意を告げられる。
「S」の皆さまとご一緒しろ、というのが、義父からの命令だった。
従うふりをして、屋敷から少し離れた場所で蒼は逃亡を試みる。
周囲は「S」の構成員たちに囲まれており、
またパーティーのときには決して武器を所持するなとの義父の命令から、丸腰の蒼は絶対的に不利だったが、
一か八かで使った父の形見の絃は予想外に手になじみ、構成員たちをいとも簡単に倒していく。
穏やかな紳士がもう諦めるように言うが、官房長官は聴かない。
と、そこに。
「この子とこれ以上戦うのは無理。もうやめましょう?」
突然響いた美しい女性の声。
顔を上げると、少し離れた場所に女性と自分と同じ年頃の少年が立っていた。
女性の言葉に渋々従う官房長官。
しかし、去り際に少年が何かを蒼に向けて放つ。
寸でのところで受け止めたそれは、鋭利な投げナイフだった。
目深に帽子を被った少年は、それ以上何も言うこともなく、紳士の運転する車に消えた。
そして、最後に車に乗った女性の横顔が、刹那、街灯に照らされる。
それは、蒼の見知った女性の顔だった。
パーティーが終わった深夜、碧は蒼の帰りを待っていた。
そこに「組織」から碧宛の依頼が入る。
内容は、「「S」の女暗殺者の抹殺とボスの護衛」。
一抹の不安を抱えるが、思いすごしだと言い聞かせ、依頼を承諾する。
やがて、無事に蒼が帰ってきたことに安堵するとともに、その手に傷を負っていることに気づき、
父親の行いに激怒する。
父親が悪いわけではない、という蒼に、怒りを爆発させそうになる碧だったが、
これ以上蒼を傷つけたくないと思い直し、傷の手当てをする。
手当てをしている最中に、蒼が思いつめたような顔をしているのに気付き、優しく問う。
すると蒼は酷く悩んだ後、告げたのだった。
「水蓮姉に、会ったよ」と。
翌日、碧は「組織」に向かい、初めて「組織」のボスと対面する。
「組織」のボスと対面できるのは、幹部のみであり、
前ボスの珀が亡くなり現ボスに代わってからは、碧も蒼も一度も対面したことがなく、
依頼は全て彼の秘書から伝えられていた。
現ボスは「瑛李(えいり)」と名乗った。
碧とほとんど年が変わらないだろう、むしろ年下かと思われるような青年だった。
彼は碧のことを高く買っており、幹部として自分の右腕になって欲しいと碧に依頼する。
一瞬、迷う碧。
だが、蒼の寂しげな笑顔をふと思い出し、申し出を拒否する。
依頼がそれだけならば失礼します、という碧を瑛李は呼び止め、他にも依頼がある旨を伝える。
それは、「S」の女暗殺者の始末と彼女から瑛李をガードする仕事であった。
それを、蒼と碧にそれぞれ頼みたい、と。
渡された女暗殺者の写真、それは予想していた通り―かつての恋人、水蓮だった。
碧は快諾し、ボスの部屋を出る。
その背中に瑛李は「君を私の隣に置くことを、諦めていないから」と告げるのだった。
「組織」から帰る足で、碧は自分の出身高校に向かった。
既に日も落ちて誰もいない校庭を歩きながら、たった一人自分が愛した女性のことを思い出す。
あの頃、彼女も自分も医師を目指して勉強していた。
彼女だけが、碧が胸の中に抱えていた暗い闇の存在に気づいてくれた。
あの頃の碧は、まだ慣れない「組織」での暗殺の仕事と学業とで、心身ともに限界を迎えていた。
「疲れているんでしょう?辛いんでしょう?泣いてもいいんだよ。」
二人で学級委員を行なっていた縁で親しくなった彼女は、ある日二人きりの教室で、
そう言って碧を抱きしめてくれた。
あの時、母が亡くなってから初めて涙を流すことが出来た。
そして、この優しい女性を自分が愛していることに気付いた。
蒼も交えて、いわば家族ぐるみのように仲良くしていた彼女。
けれど、大学受験が本格化しはじめたある日、碧の家に訪れた彼女は別人と化していた。
美しく着飾った彼女は、碧を見て笑った。「私、「S」の構成員になることにしたの」と。
絶望した。
父親が母親を見捨てたあの日のように。
出てきた言葉はたった一言、「勝手にしろ」。
碧はそれだけ言い残して部屋に戻り、彼女は去って行った。
ただひとり、二人が去る姿を悲しげに交互に見遣る蒼だけを残して。
一方、蒼はカジノでも上の空だった。
昨日会った水蓮のことと碧のことが気になって。
そのため、支配人に懲罰を受けそうになるが、先輩である珪太が身代りに殴られる。
どうしてそんなことをしてくれるのか問う蒼に、珪太は先輩として当然だと答える。
日ごろからカジノで唯一の味方をしてくれる珪太に疑問を抱く蒼。
そんな蒼に珪太は突然、「昔、一家惨殺事件があったことを知っているか」と問う。
それは、蒼の家族が殺された事件のことだった。
何故そんなことを尋ねるのか、と問い返す蒼に、珪太は自分の父親がその事件を担当していたが、
志半ばでヤクザの抗争に巻き込まれ命を落とし、事件が迷宮入りになったこと、
その事件を自分が解決したいことを告げた。
珪太の言動に不審な点はなかったものの、蒼は「知りません」とだけ告げ、珪太の手当てをしてその場を去った。
ホールに戻ると、蒼を指名している客がいるという。
営業用の微笑を浮かべ、客を迎えた蒼の表情は凍りついた。
夜遅く碧が家に帰ると、玄関先で蒼が待っていた。
早速、碧はダイニングに場所を移し、水蓮暗殺と瑛李のボディーガードの依頼の話をする。
予想外に驚かない蒼に苦笑し、やっぱり知っていたのかと問うと、
今日、カジノに水蓮がやってきたのだと答える。
瑛李からの注文で、瑛李のボディーガードを碧、水蓮の暗殺を蒼が請け負うことになったと告げると、
蒼は少し寂しそうな顔をしてから、何故か安堵の吐息を小さく吐いた。
が、急にまっすぐに碧の目を見つめて問うのだった。
「碧は、俺が水蓮姉を殺して、本当にそれでいいの?」と。
咄嗟に答えられず、碧は言葉を濁し、それ以上蒼が追求しないことをいいことに部屋に戻った。
一方、その場に残されて考え事をしていた蒼に、背後から声がかかる。
声の主は、紅だった。
紅は水蓮がいままで香港の「S」本部にいたことを蒼に告げ、
同時に複雑な表情で、更なる情報を提供してくれた。
水蓮は、硝同様、「クローン」の研究を主に行っていたこと。
自分と同じような「道具」を水蓮が作っていた――、その事実に思わずふらつく蒼を抱きしめ、
紅は決して無理をしないように、と蒼を気遣った。
数日後、瑛李がとあるバーで行われるスポンサーとの打ち合わせに出かけるため、
碧にボディーガードの任務が下される。
同時に蒼もまた、水蓮抹殺に向けて動き始める。
バーへと向かう車の中で、瑛李は懐かしそうに珀との想い出を碧に語って聞かせる。
そして、今の自分がどれほど孤独に震えているか、訥々と訴えるのだった。
だから、碧に傍にいて欲しい、という彼の願いに、しかし碧は首を縦に振ることはなかった。
「組織」のボスを狙う「S」の構成員の車とのカーチェイスの末、
一同は目的地であるバーの裏側に車を止める。
殺気を感じ、瑛李を残したまま車から降り、その方角にナイフを投げる碧。
と、ほぼ同時に響き渡る銃声。
銃弾は逸れ、ナイフも手ごたえはあったものの、かすり傷程度だったのか、
暴漢たちはそのまま逃げ去る。
車から降りる前から、気づいていた。
あの暴漢の中に、水蓮がいたことに。
それゆえにナイフの軌道が逸れたことに、碧自身気づいていた、しかし認めたくなかった。
その頃、蒼はバーの目の前にある廃ビルにいた。
バーに向かう客を狙うのに一番都合のいいその場所には、予想通り「S」の暗殺者の姿があった。
完全に気配を消し、その背中に銃を突きつける蒼。
男は自分は「S」に家族を人質にとられて、仕方なくこんなことをしていると言い、命乞いする。
その言葉を信じる蒼。
しかし、全ては男の嘘だった。
形勢逆転、と逆に蒼の背中に銃口を当てる男に、蒼は悲しげに笑った。
「ウソをつくなら、つき通してよ」と。
次の瞬間、いつの間にか男を絡め取っていた父の形見の絃が強く引かれた。
細い金属性の絃は男の頸動脈を切り裂き、天井まで真紅の血が噴き上がった。
赤い血に染まったまま、蒼は碧に電話をする。
バー向かいのビルの敵の始末が終わったこと、他にバーの周囲に不審な様子がないこと、
バーでの会談が終わるまで此処で様子を見ていること。
電話を切った蒼は、血の香が充満した空間にしゃがみ込む。
沸々と湧き上がってくる黒い感情、首をもたげる血に飢えた獣の性を必死で抑え込むが、
だんだんと陶酔感に支配されていく自分に恐怖を覚えるのだった。
バーの奥の密室での会合には、何故か碧も同席するよう、瑛李から命令された。
居心地の悪さに早く会合が終わることばかりを考えていると、不意に瑛李の口から思わぬ言葉が出る。
「碧君を、私の片腕として幹部に任命したい。」
満場一致で賛成の声が上がる中、瑛李は確認をするように碧に問う。異論はないでしょう、と。
憎き「S」を壊滅させる、その中心になることが出来る、これ以上の好機はないと。
しかし、碧の脳裏を過ったのはやはり、寂しそうな蒼の俯き気味の顔だった。
自分に集まる視線を見渡し、はっきりと言い切った。
「私は幹部になるつもりはありません。幹部になるよりも大切なことがあります。」
白けた雰囲気に包まれた部屋から「一ボディーガードに戻ります」と出ていく碧の背中に、
ため息と苦々しげで皮肉な笑いが届いた。
ボディーガードを無事に終え、家に戻るとまだ玄関の電気がついていた。
ドアを開けると、そこには蹲るようにして座る蒼の姿があった。
少し具合の悪そうな様子に思わず「先に寝ていろと言っただろう」と強い口調で言うと、
蒼は驚いたような顔をして、それからぽつりと「碧が帰ってこない気がしたから」と呟いた。
まるでバーでのやり取りを見ていたかのような台詞に驚く碧を尻目に、
蒼は「ウソだよ」と弱々しく笑い、自分の部屋へと上がって行った。
「組織」の幹部として、「S」を壊滅させる――、きっぱり断ったようにみせて、
実はそれは確かに甘い甘い蜜のような誘惑だった。
翌日の朝、普段と変わらず蒼に叩き起こされた碧は、昨晩一晩考えて出した答えを蒼に伝える。
水蓮暗殺の役割を自分に任せて欲しい、そして蒼には瑛李の護衛を行って欲しい、と。
本当にそれでいいの?と問う蒼に頷くと、蒼は「分かった」と頷いてから、
何処か悲しそうに「碧は強いね。碧なら、きっと俺のことも殺せるね。」と笑う。
思いもかけなかった言葉に碧は蒼を強く抱きしめ、お前だけは絶対に殺せない、いや、守ると告げる。
何故そんなことを突然言い出したのか分からぬまま、ダメだよと首を横に振る蒼を、
有無を言わせず抱きしめ続けると、やがてその体から強張りが消えて行った。
「絶対に守るから。俺にはお前がいないとダメだから。」
そう伝えると、蒼は何故か困ったように笑ってみせるのだった。
蒼が碧に「自分のことを殺せる」と言ったのには、理由があった。
いやむしろ、「いつか自分のことを殺して欲しい」と伝えたかったのだ。
昨日の仕事の後、息絶えた男の亡骸とともに血の海に佇んでいた時、
もっとこの香りを嗅ぎたいと思ってしまった。
もっとこの世界を赤く染めたいと願ってしまった。
そんな自分が未だ自分の中にいることを、蒼は再度自覚してしまったのだ。
だから、もしも自分が血に飢えた獣に堕ちたときには、碧に殺して欲しい。
碧だったら、自分を殺すことが出来る――、そう思ったのだ。
けれど、強く抱きしめてくれる優しい腕を失いたくない、と思うのもまた、一方で本心だった。
碧から瑛李のボディーガードを任されたため、顔合わせの為に蒼は「組織」のビルに向かう。
実は「組織」のビルに一人で来るのは初めてだった。
碧から固く禁止されていたからだ。
初めて訪ねた「組織」は、蒼に冷たかった。
なんとか面会することが出来た瑛李は、蒼に対して敵意を隠そうともしなかった。
「いつか俺を殺すだろう「S」の狗にボディーガードをさせるだなんて、
君のお義兄さんもなかなか意地の悪いことをする。」
何も言わず佇む蒼に、更に瑛李は追い打ちをかける。
「君の父親、珀はそんなつまらない人間ではなかったのにね。
あの人は、喜怒哀楽全てを隠すことなく露わにしていたよ。君の方がよほど人形だ。」
しかし、言いたいことだけを言うと、仕事の腕は信頼していると告げ、
ボディーガードの仕事があるときには呼び出すから、という言葉を最後に、
半ば追い出されるようにして、蒼はボスの部屋を後にするのだった。
その足で蒼は、「情報屋」のところへ行く。「情報屋」とは数いる情報屋の中でも特別で、
ただ「情報屋」と言えば彼のことを指すほどの情報収集力と情報量の持ち主だった。
蒼は「情報屋」に水蓮の写真を渡し、彼女の居場所をつきとめるよう依頼する。
いつも以上に色のついた金額に、「情報屋」は依頼を快諾する。
蒼は、自分の手で水蓮を抹殺することを、諦めていなかった。
否、碧が水蓮を手に掛けることを、何が何でも阻止したかった。
二人は、確かに愛し合っていた。自分にとって、兄と姉のような存在だった。
そんな二人に殺し合いをして欲しくなかったのだ。
数日後、「情報屋」は蒼に連絡を入れた。水蓮のことについて分かったことがある、と。
23時にカジノの裏で、と約束して向かうが、その途中、一人の男に「情報屋」は呼び止められる。
男は、碧だった。
碧は「情報屋」を無理やり自分の車に押し込み、蒼に売る予定だった情報を買うと言いだす。
たとえ兄弟でもそれは許されない、と仁義を切る「情報屋」だったが、
碧が渡した帯封のされたままの札束数冊の前に、水蓮の居場所を語り始める。
と、同時に問うのだった。
「兄さん、あの姐さんと付き合ってたんだって?
なら知ってるかもしれないが、あの姐さんの弟……。」
水蓮に弟がいた。それ自体、碧は初めて聞く話だった。
そして、その後に続いた真実に、碧の心は大きく揺れるのだった。
一方、23時を過ぎても約束の場所に現れない「情報屋」を、蒼は待ち続けていた。
いい加減に見えて、きっちり約束は守る男だ。何かあったのかもしれない。
不安を抱きながら待ち続けていると、酔っぱらいが絡んできた。
「いくらでなら体を売ってくれる?」と言い抱きついてくる男を殴ろうとした刹那、
誰かがその男を飛び蹴りする。
驚く蒼を守るように立つのは、先輩である珪太だった。
男は思わぬ襲撃に恐れをなして、這う這うの体で逃げて行った。
礼を言う蒼に、珪太は当然のことをしたまでだ、と言う。
それよりこんな時間にこんな場所にいたら危ないだろう、と説教する優しい先輩に、
蒼は半ば驚きながら思うのだった、今時こんなに「いい人」がいるんだ、と。
知人と待ち合わせをしている、もうすぐ来るから、となんとか珪太を納得させ帰らせると、
ほぼ同時に「情報屋」がやってきた。
一目見て分かるほど、「情報屋」は酩酊していた。
そして「水蓮に関する情報は、何も分からなかった」と目を逸らして言った。
手付金は返す、という「情報屋」に、しかし蒼は報酬を上乗せして渡す。
手間賃だ、と言う蒼に、「情報屋」は「兄弟そろって敵わねえなあ」とぼやきながら、
蒼の手にマルチキーを渡す。
「このホテルの最上階、インペリアルスイートに水蓮はいる」そう告げる「情報屋」に
ありがとう、と礼を言い、そのままの足で蒼はホテルに向かった。
「情報屋」から得た情報をもとに、碧は紅に連絡を入れた。
ハッキングを行い、水蓮が泊まっているホテルのセキュリティをダウンさせてほしい、と。
どれぐらい時間の余裕をくれるか、と問う紅に、一刻も早くと答える碧。
苦笑いしながら、紅は1時間後には可能だと答える。
礼を言い、ホテルに向かう碧。
予定通りの時間に、ホテルのセキュリティはダウンしていた。
難なく侵入し、最上階のインペリアルスイートを目指すが、部屋の中では既に戦闘が行われていた。
扉を開け放つと、目に飛び込んできたのは多数の水蓮の部下に囲まれ、交戦する蒼。
思わず名を呼んだ、その虚を突かれて、蒼は部下の一人に腹部を刺されてしまう。
激昂した碧は水蓮の部下たちを次々にメスで斬りつけていく。
それでも抵抗をやめようとしない部下たちに、女性の声がかかる。
「貴方たちの適う相手じゃないわ、下がりなさい。」
声の主は、別れたその日と変わりない姿の水蓮だった。
水蓮は碧に言い放つ。
「貴方には私を殺せない。大事なその子を捨て置いて私を追ってくることなんてできない。」
事実、碧は蒼を残して水蓮を追う気はなかった。
碧と傷ついた蒼を残し、水蓮は非常口から悠々と去っていく。
「結局貴方は、私よりその子を取るのね。…でも、私も同じだもの、仕方がないわね。」
そんな言葉を残して。
蒼は碧に水蓮を追うように言うが、碧は首を横に振った。
そして素直な想いを蒼に告げた。
「本音を言うと、まだ水蓮を殺せるか、自分でもわからない」と。
手当てを受けた蒼は、碧をそっと抱きしめる。
そして自分の所為で水蓮を取り逃してしまったことを詫びるのだった。
蒼の傷は浅く、数日後には完全に癒えていた。
ちょうどその頃、「組織」と経済界のリーダーたちによる晩餐会のボディーガードの任務が下る。
晩餐会はホテルの大ホールで大規模に行われるが、そののち、地下の会議場に場所を移し、
限られた人数で極秘裏の会議が行われるのだという。
晩餐会の人数が途方もなく多いため、瑛李を狙うのに最も適した機会だ。
当日、蒼は瑛李の秘書として従い、碧は水蓮を今度こそ仕留める。
本当にそれでいいのか、と問う蒼に、碧は穏やかに笑って頷いた。
その表情に、もはや迷いはなかった。
一方、水蓮は会場となるホテルの近くのカフェで一人の少年と共にいた。
碧の父親主催のパーティーの時に水蓮と一緒にいた、あの少年だった。
「よかったわね、ついに貴方の「対」と対決できる日が来たわね。」
意味深な水蓮の言葉に、帽子を目深にかぶった少年は嬉しそうに唇を歪めるのだった。
晩餐会は滞りなく始まり、怪しい動きは特に見られなかった。
経済界のトップたちが集まる会だけあり、SPも至るところに配置されているため、
いくら「S」とはいえ、攻めいる隙はほとんどなかった。
むしろ、蒼も碧も勝負は地下の会議場への移動の時だと警戒していた。
やがて晩餐会は予想通り何もなく終わり、一部のトップたちが地下へと向かう。
瑛李と蒼は数人のトップとともに、最後のグループで地下のエレベーターへ案内された。
が、案内役の様子がおかしい。顔色は真っ青で、ガクガクと体を震わせている。
エレベーターに乗るのは避けた方がいい、異常を察して瑛李に囁こうとする蒼だったが、
当の瑛李が蒼の腕を引いて率先してエレベーターに乗る。
そして耳元に囁く。
「さあ、ここからお手並み拝見だ」と。
その瞬間、案内役の男の首に何か光る小さなものが付けられていることに蒼は気づく。
超小型時限爆弾。
男が焦っていたのは、これの所為だったのだ。
エレベーターの中で爆発したら、全滅だ。どうする。
しかし、爆弾が爆発する前にエレベーターは地下に着いた。
開いたドアのはるか先に、人影。少年のような体躯のそれは、蒼にとって見覚えのあるものだった。
男はその少年に向かって走り出す。
が、たどり着く前にポン、という呆気ない音とともに、男の首は爆ぜ、絶命する。
凍りつく場。
足音とともに群がる「S」の構成員たち。
エレベーターから出ないよう指示を出し、冷静にひとりひとり倒していく蒼。
だが、その瞬間、突然フロアの灯りが全て消えた。
エレベーターも動かない。
そして、刹那、目の前にはあの少年の姿があった。
みぞおちに拳を入れられ崩れ落ちそうになった蒼の首を片手で掴み締め上げる少年。
その体型からは想像できない力に、蒼の意識は為す術もなく薄れていく。
「消えろよ、ニセモノ。」
耳に届いた意味深長な言葉に意識を取り戻した蒼は、父の形見である絃で少年を切りつける。
忌々しげに絃を見ていた少年だったが、急に動きを止める。
目深にかぶった帽子の所為で表情は分からなかったが、明らかに戦意を喪失していた。
「絃…、と…さ…。」
何か小さな声で呟いた少年は、今日はやる気を失くした、と言い放ち、
電気の復旧した地下から何事もなかったように消えて行った。
残ったのは、蒼に倒され意識を失った「S」の構成員とエレベーターの中で震えるトップたち、
そしてそのすべてを楽しそうに見遣る瑛李だけだった。
ゴミの始末は「組織」の別の人間に任せよう、と言い、瑛李は会議室へと向かう。
人が一人死んでも、会議は行われる、何もなかったかのように。
その異常性に、蒼の胸は重くなるのだった。
一方、碧はホテルのチャペルにいた。
遅れてそこにやってきたのは、水蓮だった。
碧は水蓮の本当のターゲットが瑛李ではなく自分であることに気づいていた。
だから彼女が此処に現れることも予想していたのだった。
「振られた女相手にチャペルを選ぶなんて、いい趣味してるわね。」
そう言って笑う水蓮に、碧は自分が丸腰であることを示し、向かい合う。
そして、告げる。
「俺と別れた理由も、弟さんのことも、全部聞いたよ。」
実は、水蓮には重い心臓病を患う弟がいた。
両親は離婚し、その日暮らしの生活をなんとか保っている母親には、
弟の病気を治すための金を捻出する余力はなかった。
だから、水蓮は自分が医師になり、弟の病気を治そうと考えていた。
だが、病気は悠長に待っていてはくれなかった。
途方にくれた水蓮に救いの手を差し伸べたのが、「S」だった。
弟を助ける代わりに、「S」の遺伝子操作の研究員になるよう求めたのだ。
碧が「S」と敵対していることを、水蓮は知っていた。
だから迷った。
けれど、迷いの末に選んだのは、弟だった。
「そう、私は貴方じゃなく、弟を選んだのよ。
これでよかったの。弟は研究が成功して、今頃何処かで楽しく生活しているわ。」
そう言って何処か寂しげに笑う水蓮に、碧は一瞬ためらったのち、残酷な事実を告げる。
「お前の弟さんは、お前が「S」に入ってすぐ、遺伝子操作の実験に使われて…、
すでに亡くなっているよ。」
嘘だ、と否定する水蓮。半狂乱になり取り乱し、嘘と連呼する彼女はしかし、暫くして押し黙った。
だから、何度手紙を書いてもメールを打っても電話をしても返事がなかったんだ、と。
自分は何のために「S」でたくさんの人を傷つけてきたんだろう…、
そう呟いてその場に崩れ落ちる水蓮に、碧は歩み寄る。
そして、その肩を掴み、強い口調で言う。
「悪いのはお前じゃない。お前の弟さんを想う心に付け込んだ「S」だ。
だから、そんなに自分を責めるな。…弟さんを悲しませないでやってくれ。」
うなだれたままの水蓮。
その頬を両手で包み込み、顔を上げさせて。
「『行くな、俺がお前を守る。』
あのとき、俺が本当に言わなければいけなかったのは、この言葉だったんだな。
…それは、今も変わらない。」
「愛してる、水蓮。」
蒼に何度も問われて、気づいた。自分はずっと、水蓮を愛し続けていたのだと。
あの時の自分の行動を、後悔し続けていたのだと。
だから。
「やり直そう、あの日から、もう一度。」
水蓮の双眸から、涙が零れ落ちた。声を上げて、水蓮は泣いた。
暫く泣き続けた彼女は、しかし、最高の笑顔を浮かべて言った。
「私も、愛してる、碧。」
だが、言葉はそれだけでは終わらなかった。
「でもね、今はもう…、貴方以上に愛している人がいるの。」
彼女の左手の薬指には、指輪が光っていた。婚約指輪だった。
笑う碧。優しく水蓮の涙をぬぐい、幸せになれよ、と告げる。
これでよかったのだ、そう安堵する自分も何故かいて、酷く笑いたい気持ちになった。
水蓮は続けた。
「彼は「S」とは全く関係のない人間よ。
お金も権力もある、だから「S」でも簡単には私に手を出せない。
もう「S」に怯えて過ごさなくてもいいの。
…もちろん、惹かれたのはそれだけが理由ではないけれど。
何より、誰かさんと同じくらい優しかったから。」
悪戯っ子のように舌を出す彼女の瞳には、もう涙はなかった。
碧は優しく水蓮の頭を撫で、立ち上がらせる。歩き出す二人。
「このまま逃げられると思うなよ!」
突然チャペルに響いた声の主は、水蓮をずっと監視してきた「S」の構成員だった。
男が銃を構えるより前に、碧は水蓮のガンホルダーから銃を抜き、男を撃つ。
一撃で額を撃抜いたその後も、原型を残さなくなるまで撃ち続ける碧に、
水蓮はもうやめて、と縋る。
「お前を脅かす奴はもういないよ」と笑う碧に、
水蓮は「貴方はもうずいぶん遠くに行ってしまったのね」と寂しそうに笑うのだった。
一連の事件が終わり、蒼は瑛李から「組織」に呼び出された。
今回の一件は、任務失敗と言っても過言ではなかった。
瑛李の命は守れたものの、会議前に死人が出る騒動を起こし、
ターゲットである水蓮は国外へと姿を消し、二度とその居場所が割れることはなかった。
不機嫌そうな顔を隠しもしない瑛李は、蒼に言い放った。
「私は、君のパートナーである碧さんを高く買っている。君にはもったいない逸材だ。
今回の件も、君にもっと力があれば、完遂できた任務だ。
だから、碧さんと君のペアを解消する。」
「え…。」
思ってもみなかった罰に、蒼の全身から血の気が失せた。
だが次の瞬間、にやりと瑛李が笑った。
「…と思ったが、碧さんがどうしても君がパートナーでなければならない、と言ってね。
それに、今回の件については正直に言おう。
100点とは言わないが、結果的に言えば、十分及第点だ。
今までどおり、これからも碧さんとペアを組んで任務に励んでくれ。」
「ありがとうございます。」
深々と頭を下げる蒼に、クスクスと瑛李が笑った。
「…君にもできるんだね、そんな「人間らしい」表情。」
それから数日後、碧は空港にいた。
「…たく、からかってんのか、なんなのか。」
苦笑しながら小さく呟いたその手には、水蓮からの結婚式の招待状。
航空券まで添えられたそれを乱暴にポケットにしまうと、背後から声をかけられた。
「やっぱり行かなかったんだ。」
くすくすと笑うのは、蒼だった。
「当たり前だろ、振られた男がどの面下げて結婚式に行けるんだよ。
笑いものじゃねえか。」
「まあ、間違いない。」
ふん、と鼻を鳴らした碧は、しかしにやりと笑って蒼の顔を覗き込む。
「俺にはこんな可愛いパートナーがいるからな、絶対に手放さないぞ。」
「なっ、なにバカ言ってんだ、バカ碧!」
左手の薬指を握ってウインクする碧の頬を抓る蒼、だが碧に懲りる様子はない。
「あーあ、振られて悲しいから、ヤケ酒でも久々に飲むか。
なあ蒼、付き合ってくれるよな。」
「…ウーロン茶一杯ならな。」
青く晴れ渡った空を背に帰路に着く二人。
その表情はかつての恋人、かつて姉と慕った人の前途の幸福を祈る晴れやかなものだった。
【Chapter2 End】