No.2
何処かで響く電話の呼び出し音で、蒼は目を覚ました。
誰もいないようで鳴り止まなかったそれは、しかし、蒼が子機に手を伸ばす前に切れた。
まだぼんやりとした頭で枕元のスマホの時計を見ると、既に9時を回っていた。
どうりで誰も出ないはずだ。
しまった、寝坊してしまったらしい。
いつ以来だろう、こんなにも寝過ごしてしまったのは。
サイドテーブルの机の上には、サラダとパン。
朱の文字で「味気なくてごめんね」と書かれていた。
どうやら眠っている蒼をあえて起こさず、朝食のことも全て朱がやってくれたようだ。
昨夜のことも含め、帰ってきたら謝らなければ。
とりあえず着替えをしようとベッドから降りた途端、身を裂くような痛みに悲鳴が漏れた。
ずきずきと体のいたるところが軋んでいる。
原因は、分かりきっている。
悔しさと情けなさで、気づいたら唇をきつく噛みしめていた。
昨日のこと、いっそあれは悪夢だったと思い忘れてしまいたかった。
けれど、この疼くような痛みがあれは現実だったのだとまざまざと見せつける。
あの男の為したこと、何もかも、体は鮮明に記憶している。
恐怖と酷い脱力感から、蒼はその場にぺたりと座り込んでしまった。
「もう…嫌だ…。」
またあの日々が繰り返されるのだろうか。あの男の体に繋がれた、虜囚の日々が。
震える躰を掻き抱き、記憶に縋るように、昨夜の碧の優しい抱擁を思い出す。
自分を守ってくれる、力強い両腕。
いっそ全てを明かして、あの両腕に縋りつくことが出来たらいいのに。
けれど、それはできない。
碧を巻き込みたくない。壊してしまいたくない。
自分さえ耐えれば、それですべてが済むのだ。耐えることなど、慣れてしまったではないか。
そろそろと立ち上がり、痛みをごまかしながらなんとか着替えを済ませると、また電話が鳴った。
今度こそ、慌てて子機を手にする。
「もしもし?」
「あっ!そ、蒼坊ちゃま…!!」
「爺?」
受話器の向こうの声は、いつになく平常心を失くした爺のものだった。
なるべく落ち着かせるように、穏やかな口調で蒼は尋ねた。
「どうしたの?何かあったの?焦らなくていいから、ね。」
「実は…、お父様が、鴛(エン)様が昨夜倒れられて、かなり危険な状態で病院に搬送されたのです。」
「えっ、お義父様が…?」
義父――碧の実の父親であり、蒼の養父である鴛が、倒れた。
そういえば、最後に会ったあの晩餐会で、義父は以前よりも随分痩せてしまっていた。
「どうか碧坊ちゃまを連れて一緒に来てはいただけないでしょうか。
大切なお話が、お二人にあるそうですから。」
「分かった。すぐに碧を連れていくから。だから爺、お義父様をよろしくね。」
「勿体ないお言葉、ありがとうございます。」
二言三言、爺を励ますような言葉をかけてから、蒼は電話を切った。
そしてすぐに碧のスマホに電話を掛けた。
急な電話だったからだろう、すぐに出た碧の声は酷く緊張していた。
「どうした、何かあったのか?」
心の底から心配してくれる声色は、しかし、要件を告げると瞬時に凍えた。
「はっ、あの男が?いい気味じゃないか。俺には関係ない。」
「碧っ!?」
蒼の声は、半ば悲鳴のようだった。
覚悟していたとはいえ、それでもまさか、実父が危険な状況だというのに、
碧がここまで冷淡な態度をとるとは思わなかったのだ。
「だって、もしかしたら最後かもしれないんだぞ!会わなきゃ絶対に後悔する!」
「後悔?誰が。あんな「S」の犬、独りで死んでいくのがお似合いだ。
いや、どうせお得意様の「S」の皆さまが看取ってくれるさ。
俺たちなんて、アイツの目には入ってないんだよ。」
いつもの碧からは想像できないような、低く冷淡な声。こんな碧、蒼は知らない。
背筋がぞくりと震えるのを感じながら、厳しい口調で碧を叱責した。
「そんな酷いこと言うなよ!お義父さん、俺たちに話したいことがあるって…。」
「俺は聴きたくないね、あんな奴の話なんて。」
「いい加減にしろよ!そうやって小さな子供みたいに意地を張るのも!」
売り言葉に買い言葉で告げた言葉に、しまったと後悔しても後の祭りだった。
スマホ越しでも分かるほど、碧の気配が変わった。
獣が唸るような、低い声。
「お前に…、お前に俺の何が分かるんだ…。」
そんなふうに碧に言われたのは初めてだった。
謝らなければ、と思うのに、唇が震えるばかりで少しも言葉にならない。
「俺は行かない。それに…、今夜はあの人の…瑛李様のところに行く。
遅くなるから、先に寝てろ。」
「ちょ…っ、待って、碧!碧っ!?」
しかし、既に電話は切れてしまっていた。
スマホを握りしめたまま、蒼はよろよろとその場に座り込んでしまう。
視界に入った手は、滑稽なほどガクガクと震えていた。
少しずつ、少しずつ…、何かが狂い始めている。
自分と碧の間で、何かが変わり始めている。
そんな暗い予感が、蒼の胸を締め付けた。
結局、碧に電話をした後、蒼はその足で義父の入院している病院へ向かった。
入院病棟の受付で、鴛の息子だと名乗ると、すぐに爺が迎えに来た。
「蒼坊ちゃま、来て下さったのですね、ありがとうございます。
ところで、碧坊ちゃまは…。」
「ごめんなさい、爺。碧は…。」
「いえ!蒼坊ちゃまがお気になさることはなにもないのです。
仕方がないのですよ、碧坊ちゃまは…。
それより、お父様がお待ちです、さあ、どうぞこちらへ。」
鴛の病室の前には、面会を待つ多数の人間が溢れていた。
その間を縫って病室に入ろうとする爺と蒼に、彼らの視線は集中した。
舐めるような疑念の眼差しに居心地が悪くなり、蒼は思わず俯いた。
耳に届くのは、蒼を誹謗する言葉ばかり。
遺産目当て、死神、外面だけいい悪魔…。
そういえば、父と母と妹が死んだときも、同じような視線と中傷に晒されたっけ。
結局、何も変わっていないのだろうか。自分を取り巻く環境も、そして自分自身も。
「蒼坊ちゃま、どうぞお入りください。」
爺の声に弾かれたように蒼は顔を上げ、足早に病室へと入った。
「失礼します。」
外のざわめきから隔離されたように、病室の中は静かだった。
ただ、部屋を埋め尽くすように置かれた機械の音だけが、低く微かに響いている。
そんな機械に取り囲まれた義父は、とても小さく見えた。
僅かに見える胸元は、骨が浮き上がっていて、蒼はあまりの痛々しさにそっと視線を逸らした。
その横顔を、鴛の視線が捉えた。僅かに見開かれた瞳。
そして、呟いた言葉。
「珀…?」
「え…?」
ハッとして、蒼は鴛を見つめた。
何故、義父が父の名前を?それも、自分を見てその名を口にするなんて。
確かに自分と父はよく似ていると言われる。
けれど、何故この人が父のことを知っているのだろうか。
隣に立つ爺が一瞬、つらそうに眉を顰めたが、その理由を尋ねることはできなかった。
鴛の変化は本当に刹那のことで、すぐにいつもの厳しい表情に戻った。
そして。
「末期がんだ。」
切って捨てるように、鴛は言った。
「もって半年、と言われている。」
まるで他人事のように自分の死期を話す鴛に、蒼はどうしていいのか分からず、
ただ素直に胸に浮かんだ言葉を告げていた。
「ごめんなさい、お義父さん。碧を今日連れてくることが出来なくて。」
深々と首を垂れる。
自分が感情的にならなければ、理論的に諭せば、万が一にも碧も来てくれたかもしれない。
それなのに、自分ときたら。
自責の念に駆られる蒼の頭を、誰かがぽんぽんと優しく叩いた。
それが義父の手だと気づくまでに、随分と時間がかかってしまった。
鴛は、微かに笑みを浮かべていた。それは多分、この人が初めて蒼に向けた笑みだった。
「お前が気にすることなどない。…辛い想いばかりさせて、すまなかったな。」
「お義父…さん…?」
「本当は、もっとお前を…。」
乾いてひび割れた唇は、しかし、全ての言葉を刻む前に閉じられた。
蒼の頭から、優しい手が離れていく。
酷く寂しい。
視線の先の鴛の表情は、いつの間にか普段の厳しいものに戻っていた。そして。
「…話は、遺産と会社のことだ。」
はっきりとしたよどみない口調で、告げられた言葉は。
「お前はもちろん、碧にも遺産は一切残さない。そして、会社もだ。
取締役会に諮って、次期社長に会社の全てを譲渡する。」
一瞬、蒼は言葉を失った。
碧にも、何も残さない?実の息子に譲り伝えるものがない?
別に、碧は金を必要としているわけではない。
そうでは、なくて。碧にとって必要なものは…。
けれど、蒼にはただ頷くことしかできなかった。
きっと、現状では碧もまた、それを望むだろうから。
どうして二人の関係はこんなにも拗れてしまったのだろう。
血の繋がった親子だと言うのに。
碧はその理由を教えてくれなかったし、自分も無理に聞こうとはしなかった。
だから蒼には分からない、何が二人をこんなに頑なにさせているのか。
蒼の心中を見透かしたように、鴛はぽつりぽつりと語り始めた――碧との確執の原因を。
義父が語った内容は、碧の母の死を巡る一連の出来事だった。
心から義父を愛していた彼女の死よりも、鴛は仕事を優先した。
そして碧の母は碧に看取られ、息を引き取った。
「あいつが…、碧が正しかったんだ、私もそれくらいは分かっている。
だが、それでも…。」
自嘲的な笑みを浮かべた小さな声の呟きが、何故かとても重い言葉のように感じられた。
しかしそれ以上、鴛は何も語ろうとはしなかった。
そして、凍りついたままの表情で、蒼に帰るよう命令した。
お大事にしてください、と会釈をし、病室を出ようとした蒼の背中に、鴛は。
「今度は碧を必ず連れて来い。お前たちにどうしても伝えなければならないことがある。」
思いつめたような低い声で、付け加えるように言った。
その言葉に滲む懇願するような色に、思わず振り向いた蒼だったが、
既にこちらに背を向けた義父の表情を窺うことはできなかった。
入院病棟のロビーから外に出ると、蒼は小さく吐息を吐いた。
義父も碧も、二人とも間違ってはいないのに。
ただ、互いの想いがすれ違ったまま伝えられないだけなのに。
できることなら、義父の本当の気持ちを、碧に伝えたい。
けれど。
自分では、力不足、かもしれない。
そのとき、カバンの中のスマホが振動した。
もしかしたら、碧からの電話かもしれない。
慌てて取出し確認したディスプレイに、しかし、蒼の表情は青褪めた。
これは、昨日教えられたばかりの番号。
自分を縛る、あの人からの呼び出し。
震える手で通話を押し、スマホを耳に押し当てる。
「はい…。……はい、いますぐそちらに向かいます。」
予想通りの内容にスマホを切ってからも蒼の震えは止まらなかった。
それでも、逃げるわけにはいかないから。
高く澄んだ空を嘆くように見上げ、蒼は義父に呼び出されたホテルへと歩き始めた。
その晩、碧は蒼に告げた通り、「組織」へ向かった。その足取りは重い。
朝、蒼から受けた電話の時にみせたあの怒りはすぐに落ち着いたものの、
それは時を経るにつれて蒼に対する申し訳ない気持ちへと変化して、碧の胸に重く圧し掛かった。
蒼は、何も悪くなかった。正しいことを言っていた。
それなのに、自分の子供じみた感情が、何も知らない蒼を傷つけた。
それでも、どうしても、あの男のことだけは許せなかった。
最後まで愛してくれた母を平気で見殺しにした男を、許すことだけは。
ごめんな、と胸の内で蒼の謝る。
優しい蒼は、自分とあの男との不和に心を痛めている。
本当は守らなければいけない蒼を、逆に自分はこんなことで傷つけている。
そうだ、自分は蒼を守らなければいけないのだ。
これ以上、彼が傷つかないためには、自分の意思を曲げることだって必要だ。
できない、では済まされない。変わらなければ、自分が。
愛しているからこそ、失いたくないからこそ、これ以上蒼に負担をかけてはいけない。
次にもし、父親が自分を呼びだしたら、蒼と一緒に行くことを胸に決める。
大切な人を守るためには、自分ももう立ち止まっていてはならないのだ。
瑛李の部屋の前に来ると、気持ちを落ち着けるために小さく息を吐いて、
ドアをノックし、返事も待たずに開けた。
「今夜も来てくれて、ありがとう。」
瑛李は今まで見た中で一番穏やかな表情で、碧を招き入れた。
「待っていたんだよ。」
以前とはかけ離れた、明らかに心を許してくれているその様子に、碧もふと笑みを浮かべる。
椅子から立ち上がり、目の前に歩み寄ってくる瑛李の腕を、そっと碧はとった。
「怪我の具合はどうですか。」
「ああ、だいぶいいんだ。…ありがとう、貴方のおかげだ。」
この表情。心配かけまいとして浮かべる、哀しい笑顔。蒼にとても良く似ている。
「貴方、だけだ。私を救ってくれるのは。」
縋るような瑛李の眼差しに、碧は息を呑んだ。
昨日以上に弱々しい、瑛李の姿。
巨大な「組織」の長として、閉ざされた空間で独り耐え続ける彼が見せてくれた、弱さ。
「傍にいて欲しい。…貴方に、守って欲しい。」
何処か呻くように告げられた言葉は、しかし、予想していなかったもので、
思わず碧は言葉を失う。
「駄目…だろうか…。」
「いえ…。」
どれだけ真剣で悲しげな眼差しで見つめられようとも、今はまだ、答えが出ない。
自分に彼を守るほどの力があるかも疑問だし、何より、自分には。
蒼――。
彼を守る、という使命がある。珀を失ったあの日、自らに課した使命が。
けれど、蒼は?
本当に彼は、今も自分の助けを必要としているのだろうか。
守ることは、すなわち縛り付けることではない。
蒼の自由を、守るという言葉で飾り立てた己のエゴで、奪ってしまってはいけない。
もしかすると、蒼はもう、自分のもとから飛び立とうとしているのではないか。
それを離したくなくて、自分は。
本当は、あの病気の呪縛さえ解き放てば、もう彼は自分を必要としないのではないか。
「碧…?」
気遣わしげな瑛李の声に、はっとして碧は思案を止めた。
目の前の瑛李は、とても寂しそうに僅かに笑んだ。
「蒼クンのこと、考えていたんだね。」
「…すみません。」
「いいんだ、分かってる。彼が貴方にとって、特別だってことくらい。
…いいな。私は彼が羨ましいよ、そこまで貴方に想ってもらえる、彼が。」
「瑛李様…。」
「「様」はいらない。瑛李でいい。」
「…分かりました、瑛李。」
少しずつ、自分の中でこの人の位置づけが変わってきている。
絶対的な「組織」の長、ではなく、ひとりの寂しい人間へと。
自分たちに近い存在へと。
だから。
「貴方を守りたいと思います。「組織」の一員として、必ず。」
「…ありがとう。」
頷く瑛李は、酷く寂しげだった。そして、ぽつりと。
「いつか、「組織」の一員という理由ではなく、貴方が傍にいてくれるようになったらいいな…。」
今の碧には、答えるべ言葉を見つけることはできなかった。
あれから既に、3日が立っていた。瑛李に「守って欲しい」と言われた、あの日から。
あれ以来、碧は時々ぼんやりと考え事をするようになった。
特に仕事が終わり、家に帰ってからなどは、注意力が極度に落ちていた。
理由は歴然としていた――、悩んで、いるのだ。
自分は、本当に蒼の支えになっているのだろうか。
以前はただ単に兄として、暗殺のパートナーとして、彼を守ろうと思っていた。
それがまた、かつてのパートナーに対する鎮魂になるだろうとも考えていた。
ただ守れば、それでよかった。けれど、今は。
「碧?…へーき?」
不意にすぐ近くで響いた声と、目の前をひらひらと動く手に、はっとして碧は我に返った。
「どうしちゃったのさ、ぼーっとして。」
目の前で小首をかしげているのは、朱だった。
「ああ、朱か。帰ってたんだな。」
「何言ってるの?さっきからずっと、碧を呼んでたんだけど?」
心底呆れた、という様子で、朱は不機嫌そうに腰に手を当てた。
「悪かった、気づかなかったよ。」
信じられない、と零してから、朱は碧の隣に腰を下ろした。
「ねえ、碧。最近すごくぼんやりしてない?ちょっとおかしいよ。」
歯に衣着せぬ物言い。その眼差しは真剣だった。
苦笑して、碧は首を横に振る。
「別に、なんでもないさ。」
「本当に?…あのね、僕に嘘は通用しないんだからね。」
朱は碧の言葉を全く信用していないようだった。
が、それ以上追及することなく、話題を変えた。
その眼差しは、いっそう厳しいものに変わっていた。
「蒼は?」
「蒼?…ああ、今日も体調が悪いみたいで、もう寝たぞ。」
「今日も?」
碧の返答に、朱はぐっと眉根を寄せた。
「おかしいよ、蒼。絶対におかしい。最近、病状が急に悪化してない?」
「みたいだな。」
「みたいだな…って、なんでそんな無責任なことが言えるのさ!」
ドン、と朱の拳がテーブルに叩き付けられた。
思わず碧は朱の顔を見る。
「いい加減にしてよ、碧!
君はこの期に及んでまだ、事の深刻さが分かっていないの!?」
一瞬の、沈黙。
そして。
「蒼は、死ぬよ。」
迷いなく、淀みなく、朱の唇から紡がれた言葉。
「このままだったら、間違いなく、蒼は死ぬ。」
残酷な、宣告。無慈悲な、予言。
「ッ!」
碧の瞳が、零れんばかりに大きく見開かれた。
けれど、そんな碧の動揺を全く気にする様子もなく、淡々と朱は言葉を続けた。
「君はどう思っているのか知らないけれど、状況は少しもよくなっていない。
だって、誰一人として、あの子を救う有効な手段を見つけられていないんだから。
確かにちょっと前まで、蒼の体調は良くなったように見えたよ。
でも、根本的には何も解決していないのに、完治なんてするはずがない。
あの子の未来は、変わらない。
このままじゃ…。」
「黙れ…。」
「このまま、この状況が続けば、あの子は。」
「言うな、言わないでくれ!」
「あの子は、蒼は、死ぬんだよ。」
呆然と、碧は朱を見つめた。いつの間にか握りしめていた拳から、力が抜けていく。
「蒼が…、死ぬ…。」
掠れた声が、小さく漏れる。まるで自分に言い聞かせるように。
「蒼が…死んでしまう…。」
そうだ、時間はもう、幾許も残されていないのだ。
それなのに自分はいま、何を悩んでいる?
必要とされていようとされていまいと、関係ない。
今はただ、蒼の命を救う、それだけでいいのだ。
もうこれ以上、大切な人を失ってしまうのは、嫌だから―――。
「そうだな、あいつの命を救う。
俺がやらなければならないことは、考えなければいけないことは、それだけだ。」
たどり着いたシンプルな答えに、思わず笑みがこぼれた。
朱が頷く。
「僕も紅も、力になる。
だから…、碧、お願いだから、蒼を見失わないで。あの子の傍にいてあげて。」
深く頷き返すと、やっと朱の表情に柔らかな笑みが過った。
玲が待ちわびていた日が訪れた。
与党議員がカジノを貸し切り、「蒼」とゲームをする日。
やはり今日も約束の時間から30分ほど過ぎた頃、店のドアが開いた。
「ようこそ、いらっしゃいました。」
いっそ穏やかともいえる表情を浮かべ、玲は男たちを迎えた。
男たちが醜く笑う。
「やあ、蒼クン、久しぶりだね。
なんでもこのあいだ、ついに不敗神話に泥がついたそうじゃないか。」
挑発するような言葉にも、玲は少し笑んだだけだった。
そして、極めて機械的な口調で尋ねた。
「どのようなゲームをお望みですか?」
この議員もまた、いつものようなくだらない色当てゲームを望んだ。
ただ玲は頷いて、銀色の玉を手に取った。自然な動作で球をルーレットに添わせる。
自分の手元をじっと珪太が見つめているのを感じる。
ごめんね、おそらく自分を信じてくれているであろう珪太に謝罪の言葉を胸の中で呟いた。
そして。
転がした球はやがて勢いを失くし、レッドのポケットに落ちた。
男がコールした「ブラック」ではなく。
「レッド。私の勝ちですね。」
珪太が息を呑む音が、静かなホールに響く。
当の議員はといえば、大して気にもしていないようで、ニヤリと唇の端をただ歪ませた。
「一度で君に勝てるなんて思っていないからね。続けてくれ。」
しかし、何度繰り返しても結果は同じだった。
議員がコールした色とは逆のポケットに、銀色の球は悉く落ちた。
珪太の視線が、痛い。けれど、振り切るように玲は同じことを繰り返した。
やがて、議員の手元からすべてのチップが消えた。
「貴方の、負けです。」
たった30分の勝負だった。
わなわなと震える議員の唇。
何も言わずに玲はそこに議員などいないかのように、黙々とチップを片づけていく。
議員もまた何も言わず、くるりと踵を返し、店の出口へと向かった。
慌てて後を追う取り巻きたち。
ばらばらと乱れた足音が店の外に消えると、店内は不気味なほどの静寂に包まれた。
何もなかったように片付けを始めるディーラーたちの中で、珪太だけが呆然と立ち尽くしていた。
玲は、珪太を見なかった。いや、見れなかった。
そのとき。
「蒼。」
響いたのは、支配人の怒りを孕んだ声。玲は振り向く。
「やっと賢くなったと思ったら、またバカに逆戻りか。
そんなにお前は私に痛めつけられたいんだな。…いいだろう、来い!」
「待ってください!」
支配人に異を唱えるように響く、珪太の声。
しかし、支配人は珪太のことなど全く無視をして、玲の華奢な躰を引きずるように、支配人室へと連れ込んだ。
同じカジノの一室なのに、呼吸をするのが苦しく感じられるほど、支配人の部屋は淀んだ空気に満ちていた。
部屋の真ん中まで来ると、支配人は玲の腕を離した。
玲はそれでもただ真っ直ぐに、支配人の顔を見つめ続けた。
静かな双眸の奥には、激しく燃えたぎる炎。
けれど、そんな秘められた熱に愚鈍な支配人が気づくはずなどなかった。
「なんだその目は。あんなくだらないマネして、よくもそんな偉そうな態度がとれるなあ!
このバカが!!」
玲の胸倉を、支配人が掴んだ。ブツリ、とシャツのボタンがちぎれる音。
そして、玲が予想していたよりも早く。
「ッ!」
みぞおちを襲った激しい痛み。支配人の右の拳が、無防備な玲の腹に埋められていた。
胃の中から何かがせり上がってくるような、嫌な感覚。ぐらり、と視界が揺れた。
「いつもいつも命令に逆らって、本当にバカだな、お前は!」
身を折った玲の腹を、今度は蹴り始める。何度も、何度も、何度も。
やがて玲が膝をつき、地面に四つん這いになると、
その襟首を掴んで無理やり立ち上がらせた。
「おいおい、もうギブアップか、今日は。」
ぼんやりとした瞳で、玲はまだ支配人を見ている。
うわごとのように動く、唇。
「…いつも、いつもこうなんですか…?」
眉を寄せる支配人。
「はぁ?何言ってるんだ、お前。そうか、ちょっといたぶり過ぎて頭がおかしくなっちまったか。」
そう言って笑う支配人の声を縫って、もう一度。
「いつも…こんなひどいこと…して…。」
苛立ちが支配人の顔に浮かんだ。ぐっと玲に顔を近づけ、そして。
「してるだろ、いつも!お前がぶっ倒れるまで、いたぶってやってるだろうが!」
その言葉を支配人が口にした刹那、玲の瞳が変わった。
ぼんやりとしていた焦点が合い、鋭い殺気が浮かぶ。
やはり、そうだったのだ。蒼はこの男にこんな目に遭わされ続けてきたのだ。
もう許さない、決して。大切な弟を傷つけ続けてきた男など。
死ねば、いい。
「そう…。じゃあ、殺してあげるよ、アンタなんて。」
ドガッ――!
「ギャアア!」
目で捉えられないほどのスピードで繰り出された、玲の蹴り。
見事に支配人の顎に決まり、ゴギッと鈍い音がした。
骨の折れた感覚に、玲は冷たく唇の端を歪める。
自然、支配人の手は玲の襟首から外れ、喚きながら顎を押さえる。
そのがら空きの腹に、今度は拳を埋める。肋骨の折れた手ごたえ。
たまらずに支配人は自らを守るように、丸くなって蹲った。
「た…、助けてくれ…!」
命乞いの言葉にも、玲は全く反応せず、ただ支配人の横腹を規則的に蹴り上げる。
このくらいのことで、この男を許す気にはなれなかった。
蒼はずっとこの男からもっと酷いことをされてきたのだ。このくらいの痛みでは決して足りないくらいの。
こんな男、死んでしまえばいい。取るに足らない、害虫のような人間。
蒼を傷つけるだけのくだらない存在など、死んでしまった方がいいに決まっている。
今の玲は、いつもの笑顔の似合う明るい玲ではなかった。
人の死などなんとも思わないその冷えた目と残忍な表情は、「S」の頃の玲のそれだった。
「たすけ…た…。」
「黙れよ、うざい。」
血まみれの顔を上げ、足に縋りついてきた支配人を蹴り飛ばす。
「どれくらいアイツが辛い思いをしてたのか、分かってんのか?…分かってねえよな。
分かってねえから、命乞いなんてできる。」
ふつふつと沸き立つような熱を体の芯に感じる。純粋な怒りと殺意。
抑え込もうという気持ちさえ、起きてこない。
「死ね。」
ドアの方へと這って逃げる支配人に、背後から近づく。
あと一撃、急所に加えれば、この害虫は死ぬ。
もう大切な人を傷つけることはなくなる。
だから。
最後の蹴りを入れようと、足を上げた、瞬間に。
支配人の伸ばした手が、ドアの鍵を開けた。
そこに立っていたのは。
「玲…。」
驚愕で固まった、珪太だった。
「た、助け…。」
支配人が珪太の足元に倒れ込む。
口からは血泡を吹き、白目を剥いたまま、意識を失っている。
玲と珪太は正面から見つめあう形になった。
しかし、玲はすぐに珪太から目を逸らし、足元に転がる支配人にとどめを――。
だが、一瞬、玲の行動よりも珪太の動きの方が早かった。
強く玲の腕を掴む手。
「やめるんだ、玲!」
必死の形相。悲鳴に近い叫び声。玲は激しく首を横に振る。
「ヤダっ!絶対に、絶対にコイツを殺してやるんだ!」
「馬鹿なことを言うな、殺すだなんて!!」
「でも、でもっ、コイツ、蒼に酷いことをした!だから殺されて当然なんだ!」
「そんなことをして、蒼が喜ぶとでも思ってるのかよ!!」
珪太が叫んだ言葉に、びくりと肩を震わせて玲は動きを止めた。
その瞳にはもう、あの憤怒も殺意もなく、ただ純粋な眼差しが珪太を見つめていた。
「玲、お前はもう人殺しなんてしたくないって言ってたよな。
それなのに、蒼のために人を殺したら、お前の気持ちはどうなるんだよ。
お前が蒼のことを大切に想ってるのと同じくらい、蒼もお前のことを大切に想ってる。
それに、俺だって…。」
「珪太…、俺…。」
まるで憑き物が落ちたようだった。
震える唇、瞳が揺れ、みるみる溢れ出す涙。
いまさら気づく、自分は取り返しのつかないことをしてしまったのだと。
自分の行いの所為で、蒼は二度とここには戻って来れない。
あんなに傷つけられてまで必要とした居場所に、戻って来れない。
自分が、軽率だったばかりに。
「俺…ッ!」
「玲…。」
どうしたらいいのか分からなくて、どうしようもなくて、玲は縋るように珪太に抱きついた。
珪太はそっと玲を抱きしめ、大丈夫、と背中を撫でてくれた。
そのとき。
「れ…れい…だと?蒼じゃ…ない…のか…?」
「ッ!」
いつの間にか意識を取り戻していた支配人が、じっと玲を見つめ、呟いた。
「あ…。」
とうとう、嘘がばれてしまった。
後ずさる玲の前に、支配人の視界から隠すように珪太が立った。
その表情は、玲には窺い知れない。
「なあ、オッサン、痛いだろ?助かりたいだろ?」
聞いたこともないほど、冷たい珪太の声に、玲でさえも背筋が凍るかと思った。
見下ろされている支配人にしてみれば、それ以上に恐怖を感じたのだろう、
こくこくと何度も頷いた。
しかし、珪太は鼻で笑って、いっそう冷酷な言葉を投げかける。
「残念だったな。お前、死ぬんだよ、そのまま。
今までやりたい放題やってきた報いだ、当然だろ?」
「そ、そんな…!助けてくれっ、何でもする、何でもするから!」
みっともなく足に縋りついてきた支配人の胸倉を掴み、珪太がその体を引き上げる。
「なぁ、アンタなんで蒼にあんな酷いことしてたんだ?ワケがあるんだろ?」
「な、何もない…っ。ただあのガキが言うことを聞かないから…!」
「ウソつくんじゃねえよ!」
強く揺さぶられて、支配人は悲鳴を上げた。
「わ、分かった、本当のことを言う!…「S」だ。「S」の方が私に頼んできたんだ!」
キッと珪太の眼光が鋭くなった。
「何か契約書とかあるのか。あるなら寄越せ。それに俺と蒼の契約書と履歴書もだ。
その体じゃ、アンタは動けないだろうから取ってきてやるよ。何処にある?鍵は?」
支配人から鍵を受け取り、書類があるという金庫の中を開け、中から必要な書類だけ取り出す。
そして。
「おい、いいか、俺と蒼は今日限りでこの店を辞める。
今後、絶対に俺たちのことを探ったりするんじゃねえぞ。
そんなことをしたら、次こそ本当に…、殺してやるからな。」
台詞の末尾を強く言い、支配人を床に投げ出す。
床に転げた支配人は、分かりましたと何度も頷いていた。
「よし、行こう。」
珪太が、玲の手を取る。
その背中に、支配人が啼き声のような情けない声を上げた。
「待ってくれ!救急車…、救急車を!」
けれど、もう珪太がそちらに視線を向けることはなく、玲の背中を軽く押して歩き出す。
「し、死んでしまう…!このままでは、死…!」
「…バカじゃねえの?死ぬかよ、あれくらいで。」
ボソリ、と呟く珪太。実際、彼の言う通りであることを、玲はもちろん知っていた。
骨は何本か折れているが、いずれも決して致命傷ではない。
まだ喚き続ける支配人を完全に無視して、二人は店を出た。
俯いたままの玲をそっと守るようにして珪太が導いた先は、彼のアパートだった。
今更になって、玲の体は酷く震えていた。
自分の犯した罪の重さは、時間が経つにつれ、ずっしりと胸に圧し掛かった。
「さ、入ってくれよ、汚いけどさ。」
今にも壊れてしまいそうな薄いドアを目いっぱい開けて、明るい口調で珪太は部屋へと招き入れた。
玄関で立ち尽くす玲に微笑みかけながら、珪太は散らばった部屋の中のごみを端へ寄せている。
必要以上に滑稽でオーバーな動作で。
「痛っ!ちゃぶ台の角に小指ぶつけたー!」
喜劇のようなオーバーリアクションで珪太が騒ぐものだから、玲もつい笑みを零した。
すると、珪太は。
「やっと、笑ってくれたな。」
「あ…。」
言われて初めて気づいた。そうだ、珪太は落ち込んでいる自分を元気づけようとしてくれていたのだ。
「さあ、そんなところに立ってないで、上がってくれよ、な?」
珪太の優しさが心から嬉しくて、玲は今にも泣きだしてしまいそうな笑みを浮かべ、
珪太の作ってくれた小さなスペースにちょこん、と腰を下ろした。
「よし、じゃあ、お茶を入れてくるから待ってろよ。」
暫くすると、珪太は砂糖とミルクがたっぷり入ったコーヒーを二つ持って戻ってきた。
「熱いから気をつけろよ。」
「うん、ありがとう。」
一口、コーヒー牛乳のように甘いコーヒーを口にしてから、珪太が盛大に息を吐いた。
「あー、緊張した、はったりかますのに。」
そう言って笑う珪太の表情は、何処かぎこちない。
けれど、さっきまでのような、支配人にみせたようなあの冷酷さは少しも感じられなくて、
玲はほっと安心した。
さっきの珪太の表情は、本当に怖かったから。
まるで彼が彼でなくなってしまったように感じられたから。
「やっぱりダメだな、慣れないことなんてすると。
情けないな、俺。ほら、今さら指が震えてる。」
言われて改めて珪太の手元を見ると、薄茶色のコーヒーに絶えず丸い波紋が出来ていた。
カタカタとカップの揺れる音。珪太がちゃぶ台にコーヒーカップを置いた。そして。
「こわ…かった…ッ!」
素直にそう言って、玲に笑いかけた。
目に見えて分かるほど、珪太の体は震えていた。
玲もコーヒーカップを置くと、珪太の隣に座りなおした。
そして、震えるその体を両腕で優しく抱きしめた。
「ごめんね。ごめんね…、珪太…。」
その瞳から、一滴の涙が零れ落ちる。
玲は心から後悔していた。
自分が浅はかだったばかりに、珪太がこんな思いをしなければならなかった。
蒼は居場所を失うことになった。
いや、蒼だけではない。珪太ももう、あの店には戻れない。
ディーラーとして何処かの店で働くことさえ、難しいかもしれない。
「ごめんなさい…、本当に、ごめんなさい…。」
「いいんだよ、玲。玲は悪くない。」
「でも、珪太は別の仕事を探さないといけないから…。」
「気にするなって。俺も蒼もあんな店、辞めちまった方がよかったんだ。」
そっと抱きしめる腕を解かれて、今度は逆に玲が珪太の両腕に包み込まれた。
温かくて力強い腕。とても優しい腕。
「俺の仕事のことなんて気にしなくっていいって。
俺、自慢じゃないけど体力だけはあるからさ。どんな仕事だってできるし、大丈夫。
…ただ、蒼にだけはちゃんと謝ろうな。俺も一緒に謝るから、大丈夫だ。」
優しくて、強くて、こんな自分のことを守ってくれる、珪太。大切な、大切な人。
「ごめんなさい…、ごめんなさい!」
一度零れてしまった涙は、あとからあとから溢れてきて、もう止めることなどできなかった。
その雫を、何度も何度も珪太の指が拭ってくれる。
「もういいよ、玲。謝らなくていいから。俺、ちゃんと分かってるからさ。
お前が蒼のことを本当に大事に想っているから、ああいうことしたんだって。
そうだよな、許せないよな、あんな奴ら。だから、もう泣かなくていいから。な?
支配人のことも、後のことはなにも心配しなくていい、大丈夫、なんとかなるから。
警察官の息子が言うんだ、間違いない。」
「ありがとう、珪太…。」
止まりかけていた涙が、また溢れ出す。
「わっ、玲っ、もう大丈夫だから!泣かなくていいから、俺がついてるから…、って、あ…。」
慌ててぎゅっと玲を抱く腕に力を込めた珪太が口走った言葉に、珪太自身が驚いたように口を噤んだ。
涙に濡れた瞳で、玲はじっと珪太を見つめる。珪太の頬が僅かに赤い。
「珪太…、こんな俺とまだ一緒にいてくれるの?」
「当たり前だろ!こんな俺、とか、そんなこと言うなよ!
あのなあ、玲。俺にとってお前はさ、かけがえのない大切な存在なんだよ。
あーなんて言えばいいのかな…、うー…。
…と、とにかくだな、俺はこれからずっとお前と一緒にいる。で、お前を守る。
俺、碧さんみたいに強くないし、…っていうか、お前よりも弱いけど、でも!」
一気にまくしたてて、珪太は一瞬押し黙る。その頬は真っ赤に上気していた。
真剣な、でも僅かに照れたような眼差しに見つめられて、玲も微かに頬を染めた。
すっ、と息を吸った珪太が妙にぎこちない笑みを浮かべた。そして。
「好きだから、守るから、お前のこと。」
「…珪太!」
いよいよ止まらなくなってしまった涙を零しながら、珪太のシャツの胸に縋りつく玲と。
泣きやまない玲がどうしたら笑ってくれるか、必死になってあれこれやってみる珪太。
玲はいま初めて、本当の意味で「S」の枷から解き放たれたのだった。
事の顛末を全て知った後、蒼も碧も一言も玲を責めはしなかった。
瞳に涙をためて頭を下げる玲と、並んで同じく頭を下げる珪太に、蒼は逆に、
「そんなにも玲と珪太に心配をかけて…、二人を酷い目に遭わせてごめんなさい」と謝った。
碧もまた「気に病むことはないよ、玲。…終わったことだ」と言っていた。
けれど、どれだけ二人が気にするなと言ってくれても、玲の胸から罪悪感が消えることはなかった。
本当に、俺はここにいていいのかな…。
珪太が帰り、独り部屋に戻ってベッドに腰掛け、玲はぼんやりと宙を見上げながら思う。
このままここにいても、自分は蒼たちに迷惑をかけ続けるだけではないだろうか。
それならば、いっそ。でも。自分勝手だと、最低のエゴだと分かっているけれど。
この温もりを、大好きな人々に囲まれた優しい空間を手放せない。
俯いた耳に届く、メールの着信音。差出人は予想通り。
「珪太…。」
唇が震えて、その名を刻む。メールの内容は心のこもった気遣いの言葉だった。
そして最後はこう結ばれていた。
『もし玲さえよければ、俺のアパートに来ないか?狭くて住み心地は最悪だけど。』
大好きな珪太と一緒に暮らせる。それに、もうこれ以上蒼たちに迷惑をかけることもない。
それは玲にとって、この上なく幸せな選択肢。
だが、そう思うと同時に、今度は珪太に迷惑をかけるかもしれない、と不安になる。
所詮、人殺しだった自分。支配人を殺そうとしたときだって、何ら良心の呵責を感じることはなかった。
珪太は「玲は人殺しじゃない」と言ってくれる。
けれど。
これ以上、今以上、珪太に迷惑をかけたくない。大切な人だからこそ、もう…。
初めて抱く感情。今まで感じたことのない気持ち。
胸がきゅっと押しつぶされるような切なさに、玲は戸惑い、不安げにスマホに視線を落した。
珪太が、心配してくれている。早く返信をしなければ、珪太はもっともっと心配するだろう。
分かっているのに、どうしていいのか分からない。
こんなとき、蒼だったらどうするのだろう?
蒼は、こんな感情を知っているのだろうか。答えを、出してくれるだろうか。
ベッドから立ち上がりかけた玲は、しかし、頭を振って再びそこに腰を沈めた。
ダメだ、これは自分で答えを出さなければならないことなんだ。
手にしたスマホをベッドに置こうとした、その時、再びスマホが鳴った。今度はメールではない。
珪太がかけてきてくれたのだろうか。
しかし、画面に表示されたのは見知らぬ番号。
少しの落胆と疑念を抱きながら、通話にタッチした玲の表情が引き締まった。
電話の主が告げた、その名前を聞いて。
「あーあ、やっぱりダメかな。」
玲の家から帰ってきた後、慌てて片づけた部屋にごろんと横になって、
珪太は苦笑交じりに呟き、年代物のガラケーを畳の上に投げ捨てた。
優しい玲。優しいからこそ、こんなことになってしまった。
蒼も碧も、あの家の人たちは多分、誰一人として玲を責めはしないだろう。
けれど、玲は。少なくとも暫くの間は、あの家にいると罪の意識にさいなまれるはず。だから。
メールを送った。返信を待った。でも、まだ何も返ってこない。
見ていないかもしれない、気づいていないかもしれない、そう思った。
しかし、どうしてもいてもたってもいられなくなって、早く返事が聞きたくて、
さっきから繰り返し玲のスマホに電話をかけている。
けれど、何度かけても聞こえてくるのは、繰り返される通話中の音。
誰と長電話をしているのか、そんなことさえ気になって、気になって。
「俺、末期症状じゃないか…?」
天井を見上げ、なんとなく呟いてみた言葉が、妙にじんと胸にしみた。
玲を守りたいと思う理由はなんだろう。友達だから?親友だから?仲間だから?
「…やばくないか?」
たどり着きそうになった答えに驚いて、首を横に振る。
そして慌てて、さっき駅で取ってきた無料の就職情報誌に目を遣る。
ディーラーという仕事に未練がないと言ったら嘘になる。
けれど、あの世界に戻ることが出来ないことくらい、珪太も分かっていた。
だから、前を向く。そして、そのためには出来れば。
隣に、玲がいてくれたら――。
もう一度情報誌を置いて、ガラケーを見る。メールを送ってから、1時間が経過していた。
久しぶりに蒼は、碧の部屋を訪れていた。
「悪いな、余り体調も良くないみたいなのに。」
玲との話が終わり、彼が部屋に戻っていくとすぐ、碧が自室で話をしようと提案したからだ。
「大丈夫、碧が心配するほど悪くないから。」
勧められたピアノ椅子に座って、蒼は笑んだ。
だが、自分でもその言葉を碧が信じられるはずがないと思うほど、近頃は体調が悪かった。
原因は、ひとつ。
けれど、それを碧に悟られるわけにはいかないから、なるべく気丈に振る舞う。
碧はそうか、と短く頷き、それ以上はそのことに触れなかった。
「…今回の玲の件、俺のミスだ。すまなかった。」
「え…?」
突然、目の前で深々と頭を下げた碧に、蒼は思わず小さく驚きの声を上げた。
顔を上げることなく、碧は続ける。
「俺が玲の行動に注意していなかったから、こんなことになってしまった。
玲も深く傷ついただろうし、お前も…、お前も大切な居場所を失ってしまった。
本当に、すまない。」
押し殺した悲痛な声。握りしめたその拳が、わなわなと震えている。
碧の所為でも、玲の所為でもないのに――。
蒼は椅子から立ち上がると、そっと碧の手を両手で包み込んだ。
ハッと顔を上げた碧をまっすぐに見つめ、そして告げる。
「碧が謝る必要なんて、全くないよ。悪いのは全部、俺だったんだから。
あんな場所に玲を身代わりとして行かせたのも、結局は俺がワガママを言ったから。
みんな、みんな俺のワガママで傷ついた。俺の…。」
そうだ、自分があの場所に残ろうなどと望まなければ、誰も傷つかなくてよかったんだ。
玲も、珪太も、碧も、罪の意識に苛まれることなどなかったんだ。
けれど、碧は首を横に振った。
「お前の所為じゃない。お前の所為じゃないよ、蒼。
お前は居場所が欲しかったんだろう?誰だって居場所を求めるのは、当然のことだ。
…ただ、もっと近くでお前の居場所を、俺が作れればよかったのに。
俺は…、お前の居場所には、なっていなかった…。」
「違う!」
碧の言葉を遮って、蒼は半ば無意識に、悲鳴のように叫んでいた。
「違う、そうじゃない!碧は…、俺にとって本当に大切な大切な…。」
大切な居場所。安らげる場所。あんなカジノとは違う、本当の居場所。
信じられない、という様子で、碧が蒼を凝視している。
「あのね、碧。
俺があのカジノに勤めることにこだわったのは、あの場所が俺にとって安らげるからとか、
あの場所以外に居場所がないから仕方なく、とか、そういう理由じゃないんだ。
そうじゃなくて…。」
きゅ、と蒼の手に力がこもった。視線を手元に落して。
「今まで続いてきた日常を手放すのが怖かった。
そうやって日常だったものが、事が、一つ一つ消えていくことで、
この命が…、この命の終わりが近づいてくるような気がして、怖かった…。」
告げながら気づく、自分の中に巣食っていた恐怖の存在。
無意識のうちに恐れていた、近づきつつある死。
それを認めたくなくて、あんな場所にさえ居場所を求めた。
その所為で、たくさんの人が傷ついた。
「ごめん…、俺の所為で…。」
「蒼…。」
碧の拳が解ける。そして蒼の体を僅かに躊躇うようにして抱きしめた。
「気づいてやれなくて、ごめんな。そうだよな…そうだ、平気なわけないよな…。」
碧の声が耳元で聞こえる。
ずっと死んでも構わないと思っていたつもりだった。
でも今、大切な人々に囲まれて過ごすこの日々が、本当に幸せだから、死ぬのが怖くなった。
「碧が謝らなくていい。ただ、ね、これだけは知っていて欲しいんだ。」
いつ死ぬか分からない自分。多分、同じ時を生き続けることはできない自分。
だから、せめて碧の重荷にならないよう、ずっとそればかり考えてきた。
それゆえに、伝えることのできなかった想い。今、伝えなければ。
少し呼吸を置いてから、蒼はまっすぐに碧を見つめ、そして。
「俺にとって最も大切な居場所は、碧のこの腕の中なんだ。
碧がこうして抱きしめてくれれば、怖いこと、何もなくなるんだ…。」
力強い両腕。温かな両腕。
本当は、これ以上に望むものなど何もない。そう、何も、何も。
抱きしめてくれる碧の腕の力が、一層強くなった。
「守るから。絶対に絶対に、俺がお前のこと、守るから!死なせやしないっ、だから…。」
「うん…。」
こくり、と蒼は頷いた。
碧も頷き返し、蒼の頬へと手を遣った。
そして、そのまま。
どちらからともなく、互いの唇を重ね合わせた。
硝のもとから逃れたあの日に交わして以来のくちづけ。
あの時は、明確な意思があったわけではなかった。けれど、今は。
離れるときもまた、どちらともなく自然に。
瞼を開けたその眼前に、碧の柔らかな微笑がある。
急に恥ずかしくなって、蒼は思わず碧から目を逸らし、俯いた。
頬が赤く染まっているのが、自分でも分かる。
「自惚れるぞ、俺。いいんだな?」
「バカ…。」
憎まれ口をたたきつつ、それでも小さく頷くと、碧は優しく蒼の頭を撫でてくれた。
「俺はずっと、お前にとって自分が必要ない存在じゃないかと思ってた。
勝手に思って、勝手にいじけて…。本当にバカだよな。
でも、もう間違えない。
俺はお前を守る。何があっても、ずっと。」
素直に想いを告げてよかった、と蒼は思う。
ずっとずっと、本当の気持ちを伝えるのが怖くて、拒絶されるのが怖くて、隠し続けてきた。
でも、碧はこの想いをしっかりと受け止めてくれた。
「ありがとう…、碧。」
小さな小さな声。でも、碧の耳にはちゃんと届いたようで、その笑みが一層深くなった。
だが、次の瞬間、碧は迷うような素振りを見せてから、
それまでとは違った思いつめたような表情を浮かべ、そして。
「なあ、蒼。本当にお前、体の方は大丈夫なのか?最近、すごく辛そうだぞ。
顔色も悪いし…。その割に、外出が前より増えているみたいじゃないか。
何か隠し事、してないか?
何もないなら、俺の気の所為なら、それで構わない。
でも、もしも何かあるなら、俺に教えてくれないか。」
すっ、と蒼の顔から血の気が引いた。
義父との関係。絶対に碧に知られたくないこと。いや、知られてはいけないこと。
もし真実を知ってしまったら、碧はあの男を今度こそ赦しはしないだろう。
暗殺者としての一線を越えてしまうことだって在り得るのだ。
だから、ずっと隠してきた。ただ独りで耐えてきた。
どうせ、あの男によって既に汚された躰、今更何をされようと構わない、そう思っていた。
だが、躰は正直だった。あの男の欲望を受け入れるたびに、悲鳴を上げ、壊れていく。
碧がこの変調に気付かないはずがなかったんだ。
もう、これ以上隠し通すことはできない。
それに、もう嫌だった。大切な人がいるのに、無理やりに体を拓かれ、犯されるのは。
温かな優しい腕の存在を知ってしまったから。
救いの手が差し伸べられていることに、気づいてしまったから。
蒼の中の葛藤に気付いたのか、碧は再びその表情を和らげた。
「安心しろ。どんなことだって、ちゃんと受け入れるから。
お前を苦しめるような選択は、絶対にしないから。」
碧の真摯な眼差しに、嘘はない。
これが、最後のチャンスかもしれない。
あの男の手から逃れ、碧の救いの手に縋ることのできる、最初で最後のチャンス。
もしここでまた嘘を吐けば、碧は傷つくだろう。
そして永遠に自分はあの男の虜囚となる。
髪をそっと撫でてくれる碧の指が、とてもとても優しいから。
「指切り、できる?」
「…ああ。」
一瞬、驚いたような顔をした碧だったが、すぐに笑って小指を出した。
震える小指を絡めて。いつかと同じように、指きりげんまん。
もう、隠すことはできない。覚悟を決めて、蒼が息を吸った。
刹那。
バタン――!
微かに届いた振動と音に、蒼と碧は互いの顔を見合わせた。
今夜は朱と紅は仕事で遅くなると言っていた。とすると、今の音は。
おそらく、玲が外に出て行った音。
こんな時間に玲が何も言わずに外出するなんて、尋常ではない。
それもあんなことがあった後だけに、余計に二人の不安は高まった。
「追おう。」
「うん。」
急いで二人は部屋を飛び出した。
約束も告白も、全て置き去りにして。