Chapter3:Midnignt Sun & Morning Moon
No.1
水蓮との一件の後も、蒼と碧は変わらずパートナーとして「S」の幹部の暗殺を行なっていた。
日々の生活も変わらず、朱と紅も含めて、落ち着いた日常を送っていた。
ただ、水蓮との別れ以来、碧が蒼に構う機会が以前以上に増えたが、蒼は全く気にしていない。
碧もまた、何故自分がここまで蒼に執着するのか、明確には理解できていなかった。
そんなある日、ディーラーとしての仕事に向かう前の蒼に、碧が突然尋ねる。
「貝沼珪太って子を知っているか」と。
急に出た先輩ディーラーの名に訝しむ蒼に、碧は続ける。
「一度機会があったら、貝沼君と話がしたいんだ。」
碧の口から先輩の名前が出たこと自体が驚きだったが、話がしたいとはどういうことだろう。
ふと脳裏を過ったのは、以前、珪太が「一家惨殺事件」の話を尋ねてきたこと。
もしも機会があったらでいいから、という碧の言葉に渋々了解と答え、仕事に向かう。
通勤途中、蒼は最悪の人物と再会する。蒼を「作った」研究者、硝だった。
黄との一件以来姿をくらましていた硝だったが、再び蒼の前に現れたのだ。
蒼を壁際に追いつめ逃れられないようにし、硝は不敵な笑みを浮かべ呪いのような言葉を吐く。
「君は、植え付けられた本能から逃れることはできない。
理性と本能の間で苦しむ君は哀れで…、いっそ綺麗だ。
でもそろそろ、私の手の中に堕ちる時間だよ。さあ、おいで、蒼。」
捕まれた腕を無理やり解き、降車する蒼。それ以上、硝は追ってはこなかった。
一見、平穏に見えた日常。
けれど蒼は「S」に囚われ硝の研究に供されて以来、徐々に徐々に黒い感情に蝕まれていた。
誰かを殺めたい、血を見たいという、血に飢えた獣のような殺意に。
いつかはこの平穏な日常を、自分が壊してしまう。
そうなる前に、自分は…。
それでもあの優しく温かな関係を手放したくなくて、強く唇を噛むのだった。
勤務先のカジノの更衣室に着くと、まだ珪太の姿しかなかった。
碧の言葉を思い出すが、特に口に出すことはなく、他愛もない会話を交わしていると、
店の支配人が突然やってきた。
なんでも今日、国会議員の一行が店を貸し切り、蒼と勝負をしたいのだという。
この店でたびたび行なわれる、議員や有力者への接待。
本来ならば、必ず負けなければならないその勝負に、蒼は一度たりとも負けたことがなかった。
たかがギャンブルとはいえ「S」の人間に負ける、それが許せなかったのだ。
たとえその後、支配人たちから懲罰という名のリンチを受けることが分かっていても。
不安げに蒼の顔を覗き込む珪太。
大丈夫、と微笑む蒼に、珪太は今日の蒼は特に顔色が悪いと告げ、
自分が手伝えることならなんでもするから、と言ってくれた。
その優しさが一層、彼を碧に会わせることを躊躇わせるのだった。
約束の時間が訪れ、国会議員たちが店にやってきた。
その顔触れに、蒼は青褪める。
蒼を見てニィと唇を歪めるのは、昼間再会したばかりの硝だった。
国会議員たちとブラックジャックで勝負をし、悉く彼らを負かしていく蒼。
だが、その顔色は一戦一戦重ねるごとに、ますます悪くなっていく。
ついに硝との一戦を迎えるその時、持病の心臓発作が起こり、その場に蹲ってしまう。
それでも勝負をするよう促す支店長に、様子を見守っていた珪太が噛みつく。
そんな珪太を見た硝は笑みを深め、蒼ではなく珪太との勝負で構わないと言いだす。
拒絶する蒼、だが、珪太は硝の申し出を快諾してしまう。
もはや立つこともままならない蒼を半ば無理矢理更衣室で休ませると、
珪太は硝と勝負をする。
結果は、珪太の勝利。
「君は蒼君と仲がいいの?」と問う硝に、珪太は曖昧に首を傾げてみせた。
一方、更衣室に運ばれた蒼は意識を失っていた。
そこに足音もなく忍び寄る数人の男たち。
刹那、蒼の瞼が開き、武器である絃を手に身構える。
男たちは「S」の構成員で、病身の蒼を攫いに来たのだった。
心臓発作はまだ完全には収まっておらず、少しでも気を抜けば意識を失いそうだったが、
襲い掛かる男たちをなんとか退ける。
やけにあえなく退却する男たちに疑問を覚えつつも、無理がたたり、
そのまま蒼は再びソファに倒れ込み、意識を失った。
国会議員たちが帰るのを見送って、支店長が呼び止めるのも無視し、
珪太はすぐさま蒼を寝せてある更衣室へと向かった。
途中、更衣室の入り口に点々と血の跡があることに気づき、戦慄する。
もしかして、蒼の身になにかあったのか。
しかし、ソファで苦しげに横たわる蒼に目立った傷はなかった。
珪太の存在に気づき、薄らと目を開ける蒼。
救急車を呼ぼうと言うと、いつもの発作だから大丈夫だと言う。
それでもなお食い下がると、少し考えた後に、できれば家に送って欲しいと蒼は言った。
その言葉に驚く珪太。
秘密主義の蒼が家の場所を教えていいと思うくらい、自分のことを親しく思ってくれているのだろうか。
蒼を抱えるようにして店を出てタクシーを捕まえると、
蒼は家の住所を運転手に告げ、そのまままた意識を失ってしまった。
蒼の容体を心配しつつ、一方で珪太は不謹慎と百も承知で胸が躍るのを感じていた。
蒼がまだ議員たちと勝負をしていた頃、碧は「組織」のボス―瑛李のもとにいた。
蒼の仕事を減らしてもらうよう、直談判に訪れていたのだ。
瑛李は碧が口を開く前に、既に要件を察していて、こう言った。
「もっと蒼君の仕事を減らせと言うんだろう?
碧、君は…、本当に彼のことを分かってあげているんだろうか。
彼は君と一緒にいることで、君が彼に『普通の人間』であることを望むことで、
かえって苦しめられているんじゃないのか?
彼は本能的に人を殺すことに快感を覚える。
その本能を押さえつけることは、君が思っている以上につらく困難なことだ。
人間じゃないモノに人間のフリをさせることは、あまりに残酷じゃないか。」
「アイツは、人間です。俺たちと同じ、人間です。
そしてそうあることを、アイツも望んでいるんです。」
問答は平行線だった。ただ、瑛李はこれ以上仕事は減らせない、と言った。
「「S」の動きがまた活発化してきている。君たちにしか任せられない仕事が増えているんだ。」
嘆願への返答を聞いてしまえば、此処にこれ以上は用はなかった。
帰ろうとする碧の背中に、瑛李が囁く。
「もし、蒼君が、いつか君を殺そうとしたら…。」
「いい加減にしてください!」
振り返り思わず怒鳴ると、瑛李はいっそ憐れむような顔をしていた。
「もしも、の話に何故そんなにムキになる?君は蒼君のことを信じていないのかな?」
返す言葉がなかった。瑛李は続ける。
「守ってあげるんだよ、彼を。本当の意味で。彼が壊れてしまわないように。」
一礼し、今度こそ部屋を出ていく刹那、寂しげな声が耳に届いた。
「蒼君は幸せだな。こんなに想ってくれる人がいて。それに比べて、私は…。」
消えてしまいそうな儚い声は、いつまでたっても耳に残って消えなかった。
午後11時すぎ、タクシーが家の前に着いても、蒼の意識は戻らなかった。
ぎりぎり足りた代金を払い、蒼を抱き上げて珪太は目の前の家を見上げる。
そこには、予想とはまるで違う豪邸がそびえ立っていた。
おそるおそるインターフォンを鳴らすと、これもまた予想外に若い男の声が対応した。
蒼を送り届けに来たと告げると、男はすぐに家から出てきた。
まるでモデルのような青年は蒼の兄と名乗り、意識のない蒼を珪太から受け取ると、
お礼がしたいから家に上がっていって欲しいと言う。
一瞬迷ったものの、蒼のことを知りたい珪太はその欲求に抗えず、首を縦に振った。
蒼を部屋に寝かせて戻ってきた蒼の兄は改めて、「碧」と名乗った。
そして夕飯の用意をしてくれた。
少しハラハラするほど手馴れない様子を見ていると、それに気付いたのか、
「いつも料理は蒼がやってくれるんです」と言って笑った。
いま、オーブンで焼いているグラタンも、蒼が作り置きしておいてくれたものだという。
自分の知らない蒼の一面に驚きながらも、出来上がった夕飯を碧と囲む。
碧は気さくな人だった。よく喋り、よく笑った。
家では蒼は碧を容赦なくどやしつけていること、
休みの日はまるで趣味のように家事に勤しんでいること、
料理も上手いがコーヒーを淹れるのもバリスタ級であること。
そんな他愛のない話から、ふと珪太は何気なく口にしてしまった。
「碧さんと蒼って、外見が全然似てませんね。」
「ええ。蒼は俺の義理の弟なんです。血の繋がりは全くありません。」
返ってきた答えに、自分の無礼を詫びる。だが、碧は気にする様子もなかった。
「あの子はあまり仕事の話をしてくれないんですが、貴方のことだけはちらっと話してくれる。
きっと、貴方に心を許しているのでしょう。
…ですから、珪太さん、これからも蒼のこと、よろしくお願いします。」
頭を下げられて慌てる珪太。
と、同時にまた頭の中に浮かぶのは、父親が調べていた一家惨殺事件のこと。
蒼が養子ということは、やはり。
蒼本人が答えないことを碧に聞くのはフェアではない、分かっている。
でも、聞かずにはいられなかった。
「…蒼くんは以前奥多摩で起こった、一家惨殺事件で生き残った少年、ですね。」
碧の答えは、イエス、だった。
部屋のベッドに寝かされていた蒼は、何かが髪を撫でている感触で目を覚ます。
髪に触れていたのは、ベッドの横の椅子に座った碧だった。
蒼が意識を取り戻したことに安堵の息を吐く碧に、珪太のことを尋ねると、
夕飯をご馳走した後帰ってもらったという返事が返ってきた。
とともに。
「珪太君に、お前のことを話したよ。あの事件の被害者だってこと。」
思わず髪を撫でていた碧の手を払いのけ、睨みつけた。
どうしてそんなことをしたのか、蒼には分からなかった。
自分があの事件の被害者だと知ったら、お人よしの珪太のこと、必ず何か行動を起こす。
それも、彼の父親はあの事件を追っていたというではないか。
巻き込みたくない、自分たちのことに、あのお人よしの先輩を。
「最低だッ。」
悲鳴にも似た叫びをあげると、胸が締め付けられるように呼吸が苦しくなる。
今にも崩れ落ちそうな上体を支えようと伸びてきた碧の手を振り払い、睨みつける。
その瞬間、碧の手が不意に蒼の服に伸び、抗う間もなくシャツをたくし上げられた。
露わになったのは、無数の痣。それは懲罰と称して行われた支配人たちからの暴行の痕だった。
「…お前があのカジノでどんな扱いをされているか…、知ってたよ。」
「…それと珪太先輩のことは関係ない!」
「いや、その珪太君だけが、あの店でお前の味方だったんだろう?
だから、俺は彼に会ってみたかった。
…情報屋に調べさせたんだ、お前があの店でどんな目に遭っているのか。
知って驚いたよ、何故、そんなに傷つけられてまであの店にいるのか、って。」
その問いに、蒼は何も答えなかった。
「いい、無理に理由は聞かない。
ただ、珪太君にあの話をしたのは、お前のためでもあり、珪太君の為でもあるんだ。
あの事件の被害者だと知ったら、今まで以上に珪太君はお前を守ってくれるだろう。
逆にお前は、「S」から珪太君を守るんだ。」
「それは、どういう…。」
「珪太君の父親の死は、表向きはチンピラの抗争に巻き込まれたことになっている。
だが、本当は「S」に殺されたんだ。真実に、近づきすぎて。
つまり、珪太君も「S」に狙われる可能性は大いにある。」
その時、蒼の脳裏を過ったのは、意味ありげな硝の笑みだった。
碧の行動全てに納得が言ったわけではない、それでも蒼は肯定の意味で小さく頷いた。
と、碧が思いつめた表情で瞳を伏せた。
「本当は、ずっと傍にいてお前を守りたい。でも、俺には無理だって分かっているから。」
思いもかけない告白に、蒼は首を横に振る。
「そんなことない、碧はいつだって俺のことを守ってくれてる。」
しかし、碧は少し悲しげに笑い、蒼の胸に触れた。
「この痣のことでもそう…、お前は辛いことがあっても胸の中に押し込めてしまう。
俺は、もっと頼って欲しいのに。お前は一人で我慢してしまう。
俺がふがいないから…。」
「違う!」
強く、否定する蒼。
「違う、そうじゃない!碧がふがいないなんて…、そんなこと、ない。
俺が碧に隠し事をしてしまうのは、俺自身が弱いから。
碧に心配をかけるのが怖いから。」
「もし…、もしそうなら、隠さないで教えて欲しい。
隠されてしまう方が、余計に心配だから。
なあ、蒼。俺にとってお前は心から大切なたったひとりの存在なんだ。
だから、教えてくれ。今も、何か辛いことがあるんじゃないか。」
優しい碧の言葉に招かれるようにして思い出したのは、昼間の硝の台詞だった。
「怖いんだ…。」
ぽつり、と蒼は零す。
「俺は、怖いんだ。いつ狂気に飲まれてしまうか、いつまた殺人鬼に堕ちてしまうか、
いつ…、この幸せな生活をこの手で壊してしまうか…。」
次の瞬間、碧に抱きすくめられた。温かで優しい両腕だった。
「大丈夫。大丈夫だ、お前は狂気に飲まれたりしないよ。
そうなる前に、絶対に守るから。
だから、もう悩まなくていい。な?」
今でも不意に殺人の衝動に襲われるような弱い自分なのに、
碧にこうして抱きしめてもらえると、大丈夫だと思えてくるから不思議だ。
「ありがとう…、碧。」
その夜はそのまま、碧の腕に包まれて眠りにつくのだった。
蒼が眠りについた頃、朱と紅はちょうど財務官僚暗殺の任務を終えたところだった。
無事ひと仕事終え、帰路についた朱と紅だったが、不意に紅は足を止めた。
その視線はビルとビルの間の狭い路地に向けられていた。
「誰かいた。」
「えっ。」
「同業者の気配がした。」
朱も闇を見据えるが、何かがいたという気配は薄らと残っているものの、
それ以上はよく分からなかった。
何が狙いか分からないその気配に二人で不審感を抱きつつ、
紅はその気配にもう一つ気がかりな点を覚えていた。
それは、その気配が誰かの気配に似ていた、ということだった。
それも、自分がよく知っている誰かに。
「とにかく、用心するに越したことはないよね。」
朱の言葉に頷く。
やっと訪れたはずの穏やかな日々が既に終わりを迎えようとしていることに、
紅は小さく吐息を吐いた。
翌日、いつも通りの時間に蒼がカジノに出勤すると、いつもよりも少し遅く珪太が出勤してきた。
「え、蒼!?もう大丈夫なのかよ、体調!?」
「はい、おかげさまで助かりました。これは昨日のタクシー代です。」
いつもよりもずっと他人行儀な口調で、実際にかかったタクシー代よりもどう考えても厚い封筒を渡そうとすると、
珪太はムッとした顔をして、封筒を無理やり返してきた。
「いらない。俺が好きでやったんだから。それより、そんなに他人行儀にならなくてもいいだろ。」
しかし蒼は無表情のまま、冷たく言い放った。
「…先輩、昨日のことは、すべて忘れてください。」
珪太の顔色が青褪め、すぐに上気する。
「忘れるなんて、できるわけないだろ!
やっと…、やっとあの事件に繋がる人間に会えたんだ!
やっと、父さんの無念を晴らせるんだ、お前だって真実を知りたいだろ!?
だって、悔しいじゃないか、酷い話じゃないか、
両親を殺され、妹を殺され…、なんで殺されなきゃいけないんだよ、
なんでそんな大事件が闇に葬られちまうんだよ!
…俺は絶対に犯人を許さない。絶対に見つけ出して、法の下で裁いてやるんだ。」
珪太には、諦めるという気持ちは欠片もない。
ならば。
ふっ、と蒼は笑った。
「じゃあ、先輩は俺と同志ってことなんだ。
なら、これからは珪太先輩じゃなくて、珪太って呼んでもいい?
珪太先輩って長ったらしいから面倒くさい。」
悪戯な表情を浮かべると、珪太は肩透かしを食らったように、きょとんとしてからむくれた。
「おー、いいぞ。
…にしてもお前、すごい変わりようだな。さっきまでの敬語と、今と。」
「別に。だってこれが俺の本性だし?」
「なっ、お前、猫被ってたのか!性格悪いな!」
「え、見破れない方が悪い。」
腹は、括った。
このお人よしな正義の味方先輩は、自分が守る。
そう胸に決めて、蒼は制服のシャツに袖を通した。
カジノの休憩時間、更衣室で蒼が一人休んでいると、突然フロアマネージャーがやってきた。
支配人の忠実な犬で、たびたび蒼に懲罰と称して暴行に加わっている一人だ。
「今日の仕事の後、少し話がしたいんだ。離れの事務所に来てほしい。
残務整理が終わってからだから…、そうだな、一時間くらい経った頃に。」
「承知いたしました。」
断ったところで殴られる回数が増えるだけだ。素直に頷くと満足そうにマネージャーは去って行った。
ため息を吐いて、蒼はロッカーからスマホを取り出した。
同じ時刻のT大病院の休憩室――別名煙草部屋では、蒼の主治医である紺野と碧が難しい顔で向き合っていた。
咥えた煙草の灰だけが、どんどんと長くなっていく。灰皿に落とし、紺野がため息を吐く。
この病院で唯一、蒼と碧の素性を知る彼は、2枚の心臓の3D画像を碧に渡した。
蒼の心臓の画像だった。
「見ろ、これが去年の画像で、こっちが今年の画像。明らかに心筋の委縮が確認できる。」
紺野の言う通り、新しい方の画像の心臓は一回り小さくなっているのが心臓の素人目にも分かった。
「これだけ委縮してくると、機能の低下もかなり進んでるな。
このままだと、お前の弟の余命は…。」
片手の指で示されたその数の想像以上の少なさに、碧は煙草を取り落した。
「ウソでしょう…。」
理性ではそれが事実と分かっていても、止められなかった言葉だった。
たった、それだけ。それだけの時間しか、蒼とはともに過ごせない。そんな。
ふと、伏せていた瞳を紺野が上げた。
「俺の心臓外科としての知識や技術だけでは、この余命を延ばすことはできん。
だがな、最近、遺伝子工学の先生と話をして、
もしかしたら、これは遺伝子由来の病気かもしれんという話になってな。
それならば、もしも完璧な遺伝子地図があれば、この病気を治すことも可能かもしれん。」
「遺伝子…。」
そうだ、蒼は遺伝子操作によって生まれてきたデザインベイビーだ。
紺野たちの説が当たっている可能性はかなり高い。
ならば。
「俺が手に入れてみせます、アイツの完璧な遺伝子地図を。」
その真剣さに、強い意志に、紺野は碧に問う。
「なあ、碧。最近お前にとって、蒼の存在の意味が変わってきてるんじゃないか。
ただの義弟、家族じゃない、それ以上に大きな存在に。」
すぐには答えられない問いだったが、もし蒼がこの世に存在しなくなったら、
そう想像した瞬間、目の前が真っ暗になった。
想像さえしたくない未来、それはしかし、確実に近づいているのだ。
「俺にとって、蒼は…。」
そのとき、碧のスマホが震えた。蒼からの着信だった。
「噂をすれば、ですよ。」
今夜は帰りが遅くなる、という蒼の言葉に思わず眉を寄せたが、
それ以上止める術もなく、通話を終えた。
すると、紺野が不意に真剣な顔になり、問うた。
「蒼に、告知するか?」
医者には告知義務がある、それは承知している、けれど。
「アイツには、言わないでください。」
カジノの仕事が終わった蒼は、フロアマネージャーとの約束があるため、
更衣室に残っていた。
それを見た珪太も一緒に残ると言ってくれるが、やんわりと断る。
それでも少し無駄話をしていく珪太。
主な内容は碧をやたらに褒める話で、そんないいやつじゃないという蒼に、
「そう言ってる割に、碧さんの話をしてるときのお前、嬉しそうだよな」と言い、
蒼は複雑な気持ちになる。
自分にとって、碧との関係に名前を付けるとしたら、と。
その後、珪太は蒼を残していきつけの定食屋に向かい、食事を終えて店を出た。
駅に向かって歩き出そうとすると、目の前を足早に歩き去ったのは、
今、ここにいるはずのない人物。
思い切って呼んでみたが、こちらの声は届かないようで歩き去ってしまった。
その方向は、カジノの方向。
何故か胸騒ぎがして、珪太は踵を返し後を追う。
一方、蒼は約束の時間に事務所に向かい、ドアをノックしたが返事がない。
それだけではなく、鼻につく、覚えのある匂い。
ノブを捻ると鍵はかかっておらず、そして。
目の前に広がっていたのは、赤い、赤い光景だった。
天井まで染め上げる赤い血、中央に横たわる赤い塊はフロアマネージャーの変わり果てた姿だった。
部屋に充満する血の香りは、やがて甘い香りへと変化していく。
それは、蒼にとって待ち望んだ香り。
欲しい、血が、あの血が欲しい。
しかし、昨夜の碧の言葉が、蒼を正気に引き戻す。
冷静になり、フロアマネージャーが完全にこと切れているのを確認する。
一体、誰が。
まずこの状況で一番に疑われるのは自分だ。
早くこの場から離れなければ。
と、そのとき、誰かが部屋に近づいてくる足音がした。
このまま入り口から出れば鉢合わせになる。
窓を開け放つ。
事務所は2階にある。地上までは3メートルくらいか。
「蒼っ、おいっ、いるのか!?」
部屋の外から響いたのは、聞き慣れた声――珪太の声。迷う間もなく蒼は窓から飛び出した。
紅は新宿の街を車で走っていた。助手席に、先ほど拾った蒼を乗せて。
蒼からの緊急事態の電話を受け、すぐさま迎えに行ったのだった。
紅の勤めている商社と蒼の勤めているカジノは車でなら数分の距離、
これまでも時間が合えば一緒に帰ることは時々あった。
「それにしても、災難だったな。お前に殺しの罪をなすりつけようとする輩がいるとは。」
蒼からすべての事情を聞いた紅は、声をかける。
「う…ん…。」
しかし、蒼の返事は肯定とも否定とも取れるもので、何か考え事をしているようだった。
「あのさ…、なんていうのかな、その、俺に殺人の罪をなすりつけようというより、
もっと重要な理由がある、そんな気がするんだ。」
不安げな眼差しが、前方に広がる闇を見つめていた。
「また、「S」か。」
こくり、と頷く蒼。黒い髪がさらりと揺れる。顔色が酷く悪かった。
「何か…、すごく嫌な予感がするんだ。」
蒼の言葉に、紅は昨日のあの気配を思い出した。
実は、今朝、営業に出たときも同じ気配を感じたのだ。見張られているのか。
だが、これ以上蒼を不安にさせないよう、あのことは黙っておいた。
そして、話を変える。
「それより、いつも以上に顔色が悪い。何かあったのか。」
「大丈夫だよ。」
「とても大丈夫、という顔色ではない。迎えに来た駄賃に、教えてくれないか。」
許しを請うように上目遣いで見つめてくる蒼だったが、観念したようにぽつりと呟いた。
「硝に…会った。」
「なに…。」
硝――、蒼に血への狂気を植え付けた男。あの男が再び動き出したというのか。
ならば今回の件も、あの男が絡んでいる可能性は非常に高い。
まだ紅が「S」にいた頃のことを思い出す。
囚われの身となった蒼をじわじわと追いつめ、まるでお気に入りの人形を弄ぶかのような、
あの狂気じみた嬉々とした表情を忘れられない。
未だに蒼はあの男の呪縛から逃れられないのか。遺伝子の鎖に絡め取られて。
「硝に会った時…、またあの狂気が目覚めそうな気がしたんだ。」
震える細い肩は今にも崩れてしまいそうだった。
愛しいと思う、この弱く儚い人を。守りたいと思う。
けれど、自分はその術を持たない。
一度は裏切ってしまった自分が、愛を語る資格などない、それは理解している。
それでも、それでもこの震えを止めてやることさえ許されないのだろうか。
意を決して、そっと左手をハンドルから離し、蒼の髪に触れた。
驚いたように見つめてくる蒼に、紅は告げた。
「お前はお前だ。あの男の思い通りになど、なるはずがない。大丈夫だ。」
信号が赤に変わったのをいいことに、蒼の手を両手で包む。冷たい手だった。
「…ありがとう。」
紅の瞳に映った蒼は、彼が自分を許した日に見せてくれた、
綺麗で優しい笑みを浮かべていた。
いっそこのまま時が止まればいい、そう願った瞬間、蒼のスマホが震えた。
電話の相手はカジノの支配人で、今すぐカジノに来るようにという連絡だった。
車を路肩につけ、蒼を降ろす。
細い背中はすぐさま新宿の街に飲まれていった。
紅の脳裏を過ったのは、これで本当によかったのか、という疑念だった。
カジノの更衣室に全従業員が集められていた。
蒼と珪太は隣に座り、ぼんやりと宙を見ながら言葉を交わしていた。
蒼が店に着いた時には、既に警察の事情聴取は始まっていた。
第一発見者はやはり珪太。
既に一通りの聴取が終わり、今は他のディーラーの聴取が行われているようだ。
まだ現実感のないぼうっとした様子で、珪太はぽつぽつ話し出す。
「警察の話だと、首の骨を折って殺してから、なおかつ包丁でめった刺しにされてたって。」
「よほど強い恨みがあった、ってことかな…。」
ふわふわと宙を漂うような会話を交わしていると、捜査官が蒼を迎えに来た。
「次は蒼さんの事情聴取を行います。いらしてください。」
「はい、分かりました。」
呼ばれるがまま、蒼は控室から出た。その背中を見る珪太の視線が少し気になった。
蒼を降ろしてから、紅は帰路に着いた。
本当は蒼を待っていてやりたかったが、本人から先に帰るよう強く言われていた。
と、その時、プライベート用のスマホが震えた。車を路肩に寄せ、停車する。
表示は「公衆電話」。訝しみつつ、紅は通話を押す。
「もしもし。」
聴こえてきたのは聴き慣れた声でホッとする。
「どうした?…そうか、分かった。すぐに行く。」
どうやら今日はタクシードライバー扱いの日らしい。
迎えに来てほしい、という電話の主の言葉にスマホを切り、すぐに紅は再び車を走らせた。
呼び出された場所には、十分後に着いた。が、呼びだした当人の姿がない。
とりあえず車を降りて周囲を探してみる。
人通りのないビルの裏を曲がり暫くして、ふと背後から感じた待ち人の気配に警戒を解き、
紅は振り向いた。
「ああ、ここにいた…、!?」
言葉が終わる前に首にそっと回された手。見慣れたその顔には誘うような微笑が浮かんでいる。
「………。」
紅の無言に、目の前の人が破顔した。
刹那。
「!?」
締め上げられる首。息が止まる。腕を外そうと抗っても、その手の力は一向に弱まらなかった。
何が起きたか理解できないまま、意識が急速に薄れていく。
体が痺れ、感覚が消えていく。
その人の狂気を孕んだ双眸が徐々に薄れ…、消えた。
意識を失うその瞬間、脳裏にある答えが浮かんだけれど、
それをはっきりと認識する前に、紅の意識は闇に消えた。
紅の体から完全に力が失われたのを確認してから、その人物は手を離した。
どさり、とアスファルトに崩れる紅。
人影は懐から一本の包丁を取り出し、そして。
ズッ――
紅の腹に突きたてられると、白いシャツはみるみる赤い血に濡れていった。
満足そうに唇を歪めると、人影はそのまま夜の闇に融けるように消えた。
事情聴取後も、まだ蒼はカジノで足止めを食っていた。既に時計は三時を回っている。
珪太はいまは現場検証に立ち会っている。
事情聴取自体は通り一遍のもので、特に不審な点はなかった。
だが、蒼の胸には疑念ばかりが次々と浮かんでくる。それに少し前から嫌な予感が消えない。
心臓が押さえつけられるように息苦しいのも、持病のせいばかりではない。
そんな不安の最中、蒼のスマホが震えた。
碧からの着信だった。
「蒼か。今、何処にいるんだ。」
「何処って…、まだカジノだよ。紅から聞かなかった?」
「紅…だと?」
驚いたような声の後に、碧が黙り込む。胸に走る、不安、悪い予感。
「実はさっき病院から連絡があって…、紅が何者かに襲われたらしい。」
そんなまさか、まだ数時間前に会ったばかりだというのに。
「首を絞められた上、刃物で刺されて…、とりあえず意識がないらしい。」
「すぐ行くからっ。何処の病院!?」
収容された病院を確認し、電話を切る。
首を絞められた後、刃物で刺される。
まるでフロアマネージャー殺しの手口と同じではないか。
もしかしたら、犯人は同一人物?
ならば、自分の所為で紅は――。
荷物を掴み出口へと駆けだすと、ちょうどそこに珪太が帰ってきた。
彼はぎょっとした顔をして、蒼の手を掴んだ。
「おいっ、蒼、何処に行くんだ!まだ残ってろって…。」
「うちの居候が何者かに襲われて意識不明で病院に収容されたんだ!
今から行くから、そこをどいてくれ!」
普段は見ない蒼の剣幕に、驚いた珪太が道を開けた。
再び駆け出す蒼、だが、その背中に蒼にしか聞こえないように珪太の声が届いた。
「お前…、この事件の犯人じゃないんだよな。」
蒼の足が、止まった。一瞬の沈黙。
「俺、見たんだよ、お前が…、あの部屋に入っていくのを。」
蒼の唇から紡ぎだされた答えは、たった一言。
「俺を、信じて。」
そのまま振り返りもせず、部屋を飛び出した。
紅の収容された病院のICUに駆けつけると、そこには既に碧と朱がいた。
碧の胸元を強くつかみ、蒼は尋ねた。
「紅は!?無事なのか!?」
心臓が押しつぶされそうで、息が苦しい。
ぽん、と碧の手が蒼の頭に置かれた。
「ああ。今はまだ意識が戻らないが、命に別状はない。綺麗に急所を外れていたそうだ。」
「よかった…。…ッ!」
安堵した途端、酷い発作が蒼の心臓を襲った。
重い石に押しつぶされたように、呼吸がままならない。
碧と朱が自分を呼ぶ声がとても遠くで聞こえたけれど、そのまま蒼は床に崩れ落ちた。
蒼が目を覚ますと、そこは紅と同じ病院の別の個室だった。
そこには本来いないはずの主治医である紺野と碧の姿があった。
蒼の具合が悪いので、出張してきてくれたらしい。
「ったく、お前の過保護なおにーさまから急に電話が入って呼び出されたんだ。
ここの医師たちに睨まれる俺の気持ちにもなってくれよな、ったく。」
「ごめんなさい…。」
詫びる蒼の額を、紺野は小突く。
「殊勝な顔してんだったら、ちゃんと発作が起こった翌日には俺のところに来い。
またブッチして、仕事に行ったんだってな。たくお前ってやつはだいたい…。」
「先生、まだ意識が戻ったばっかりですから、ほどほどに…。」
蒼を庇う碧の言葉に、やれやれと紺野の盛大な溜息が響く。
「ま、発作も治まったし、今日は家に帰ってもいいぞ。
だが絶対安静だからな、分かったか。」
「はい、ありがとうございました、先生。」
ひらひらと手を振って帰っていく紺野を見送ると、碧が心配そうに顔を覗き込んできた。
「本当に大丈夫か?」
「うん、心配かけてごめん。」
紅の容態を尋ねると、呼吸器が取れていないから話をするのは無理だが、
意識ははっきりと回復しているという。安堵に胸を撫で下ろす。
「…ごめんな、蒼。」
急に碧の唇から発せられた謝罪の言葉に、思わず碧の顔をまじまじと見る。
「お前の体調が悪いことを知っていたのに、俺は…。」
「碧の所為じゃない。」
そう、碧は何も悪くない。むしろ心配してくれていた。
それを振り切ったのは、ほかならぬ自分だ。
「それより少し気になることがあるんだ、聞いてもらえるか。」
気になったこと――、昨日カジノで起きた事件と紅の事件の類似性について、蒼は話した。
碧もまた、無関係とは思えないと頷いた。
絶対に犯人を許さない、と拳を握る蒼の髪に、碧が優しく触れた。
「絶対に無茶はするなよ。これはまだ、相手の挑発の域を出ていない。」
「え?」
碧の話はこうだった。
カジノのマネージャーは殺害されたが、紅は綺麗に急所が外されていた。
それも紅が襲われた場所は夜間人通りが滅多にない場所にも係わらず、
誰かがわざわざ消防に「大怪我をした人がいる」と通報したのだそうだ。
通報した本人と思しき人物は、いくら探しても見当たらなかったらしい。
つまり、最初から犯人は紅を殺すつもりはなかったのだ。
また、カジノのマネージャーは殺される直前に誰かとの通話記録が残っていたらしい。
その番号は既に解約されており、相手が誰かは分からなかった。
「これは多分、俺たちに対する宣戦布告か、もしくは…もっと大きな罠にはめるための仕掛けか。」
蒼の脳裏を過ったのは、あの硝の笑みだった。
吐き気に襲われ口を覆うと、大丈夫か、と碧が背中を撫でてくれた。
大丈夫、と返すと、碧は続けた。
「他にも奇妙なことがあるんだ。実は、紅は正面から襲われているんだ。
つまり、顔見知りの犯行である確率が高い…。」
顔見知り…、誰が、紅を。
何が起こっているのだろう、そしてこれから何が起こるというのだろう。
暗い不安が蒼の胸に黒い影を落とした。
「とにかく、今はゆっくりして、体を治すことを考えるんだ。
じゃあ、俺はちょっと出かけてくる。戻ってきたら退院の手続きをしよう。」
ベッド脇の椅子から立ち上がった碧に、蒼は不安の眼差しを投げかける。
これで碧まで襲われたら、自分は…。
「そんな不安そうな顔するな、すぐに戻ってくるから。な?」
納得できないまま、それでも蒼は小さく頷いた。
碧が向かったのは、病院と同じくS区にあるとあるフランス料理店だった。
そこのVIPルームで彼を待っていたのは、ほかならぬ硝だった。
昨夜、蒼が倒れ、主治医に連絡を付けた直後、知らない番号から電話が入った。
訝しみながら出ると、男は名乗った、「硝」と。
どういう人間なのか、珀との関係、蒼との関係、話には聞いていたが、会ったことは一度もなかった。
そして同時に、今の碧にとって最も会わなければならない人物、それが硝だった。
「一度お目にかかりたい、お話がある」と硝は言った。そしてこの店を指定してきた。
罠かもしれない、そう考えなかったわけではない。
けれど、この機を逃せばいつまた硝と会えるかは分からない。
蒼の体のことを考えれば、時は一刻を争う。
故にこのリスキーな呼び出しに何の策もなく応じる道を、碧は選んだのだった。
悠長にワインや料理を勧める硝ににべもなく断って、本題に入ろうとする碧。
肩を竦めて硝は笑った。
「せっかちな方だ、まあ、貴方の気持ちも分かりますけどね。
では、本題に入りましょう、私の可愛い可愛いお人形について、貴方に警告しようと思って。」
「人形…?蒼はアンタの人形じゃない!!」
憤りを一気に溢れさせる碧とは対照的に、硝は暗鬱に唇を歪めるだけだった。
「アレは私の人形…モノなんですよ、お義兄さん。あの坊やは私の可愛い傀儡ですから。」
「違う!アイツは一人の人間だ!アンタの操り人形なんかじゃない!」
「Dr.碧は洒脱で冷静な人物だと聞き及んでいましたが、いやはや…、
あの子のことになると全くの別人になってしまうんですね。
でも、貴方がなんと言っても、あの子は私の人形に過ぎないんです。
私の意思ひとつで簡単に狂ってしまう人形にね。
ああ、貴方にも見せてあげたいものだな。
あの子が血への欲望に苦しみ、もがき、堕ちていく…壊れそうに綺麗な姿を。」
陶酔した、恍惚とした瞳を向ける硝は、もはや狂人だった。
これ以上、こんな話を聴いていても時間の無駄にしかならない。
憤り席を立とうとした碧を、思い出したように硝が呼び止めた。
「失礼、今日はこんな話をしに此処に来たわけではありませんでした。
あの子の体のことをお話しにきたのです。」
ぴくり、と碧の肩が動き、浮かせていた腰を再び椅子に戻した。
まるで全てを見透かしているかのように、硝はにっこりと笑って、
机の横に置いてあったカバンからUSBをひとつ、手にした。
「これは、いま、貴方が一番欲しがっているであろう、蒼のDNA地図です。」
「なっ!」
思わず身を乗り出すと、手の中にそれを包み込んでしまう。
代わりに今度は鞄から数枚のペーパーを取り出して、碧に見せる。
「ちなみにこれが中身のごく一部です。」
確かに塩基配列がぎっしりと記されている。
これが手に入れば、蒼は助かるかもしれない。
「お願いだッ、それを譲ってくれ!それがあれば、蒼は、アイツは生きられるかもしれないんだ!」
必死だった。「S」の幹部に頭を下げるだなんて。
それでも足りないかと思い、土下座までしてみせる碧を、虫けらでも見るように見下ろす硝。
「…生かして、どうするんです?」
「俺は、アイツを縛る運命から自由にしてやりたいんだ。
普通に生きて欲しいんだ!」
「そんな夢物語が、叶うとでも?
そもそも、遺伝子治療が成功する確率はほとんど0%に近い。
それも、貴方の見ている「今の蒼」の姿で、となれば、はっきり言いましょう、0%だ。
それでも貴方は、あの子を救いたいという。
それはね、お義兄さん、ただの自己満足ですよ。
貴方がなんと言おうとも、あの子の本来の姿は血に飢えた殺人人形。
欲望のままに殺し続ければ、もっと長く生きることができるでしょう。
今のあの子は、自分で自分を苦しめ殺そうとしている。」
「違う!違うんだ!アイツはそんな…、アンタたちの人形じゃない!
俺が、アイツをアンタの手から守ってみせる…、絶対に渡さない!」
刹那、硝の表情にまた薄暗い笑みが戻った。いや、実に満足そうな笑みだった。
「思った通り、貴方は私と同じ人種のようだ。
守る、ですか。
ねえ、Dr.碧。貴方は本当は蒼のことをどう思っているのです?ただの義弟?
そんなふうには見えませんね。
もっともっと大きな存在。そうでしょう?
離れられないのは蒼ではなく、貴方の方だ。
守る、なんて都合のいいことを言って、本当は手放したくない、それだけだ。」
どくん、と大きく脈が乱れた。
「貴方はあの子を独占したいんでしょう、あの子を欲望の対象として見ているのでしょう?
あの子から自由を奪い、抵抗を奪い、貶めて、許しを乞うまで辱めて。
そして最後はぐちゃぐちゃに壊してやりたい…、貴方もこの気持ち、分かるでしょう。」
ぞくり、と背筋が寒くなった。この男の欲望に、嘘はない。ならば、自分も?
「黙れ、アンタとこれ以上話す意味なんてない。」
いまこの場でUSBを奪ったところで、あれが本物である保証はない。
DNA地図も一部でしかなければ意味がない。
もはやこれ以上、この男と時間を過ごす意味はなかった。
「いっそ私をここで殺していきますか?可愛いお人形を独占するために。」
狂気じみた笑い声をあげる硝を残し、碧は足早に店を後にした。
碧はその足で病院に戻り、紅の病室に向かった。そこには蒼の姿もあった。
碧の姿を見るなり蒼はぽつりと、無事に帰ってきてよかった、と呟いた。
が、すぐに膨れっ面になり、いつまで経っても碧が戻ってこないから、
退院の手続きはもう済ませた、と言って立ち上がった。
できたら紅に付き添っていたい、という蒼を半ば無理矢理家に帰らせると、
ベッドの中、まだ人工呼吸器に繋がれた紅は、何故か少し寂しげな笑みを浮かべた。
その頃、総理公邸には、一人の男と少年の姿があった。
男は、以前、碧の父親のパーティーで官房長官とともにいた紳士。
そして室内にも係わらず帽子を目深にかぶった少年は、
蒼が瑛李のボディーガードを行った際に二人を襲った、あの少年だった。
少年はまるで実の父親のように、いやそれ以上に紳士に甘えていた。
紳士もまた優しい瞳で、まるで幼い子どもに対するように、温かな眼差しを少年に向けるのだった。
その少年の手は、誰かの血がこびりつき、赤く染まっている。
優しい口調で「洗っておいで」と紳士が言うと、少年は少し名残惜しそうな顔をしてから従った。
そして紳士に言うのだった。
「俺、偉いよね。ちゃんと燐斗が言った通り、二人目の奴は殺さなかった。
殺しちゃった方が早いのに。」
紳士――燐斗は静かに頷く。
「ああ、偉かったね。そういうのを「自制心」と言うんだ。今のお前に一番必要なことだよ。」
よく分からない、というふうに、ふうんと鼻を鳴らし、少年は燐斗の腕に抱きついた。
と、その時、乱暴なノックの音とともに内閣官房長官が入ってきた。
少年は怯えたように、燐斗の背後に隠れる。
官房長官は少年を怒鳴りつける。
「貴様ッ、何故あの男を殺さなかった!あれは我々「S」の裏切り者だぞ!」
「私が殺すな、と命令したのですよ、長官。」
間に入るようにして燐斗が答えると、官房長官は皮肉な笑みを浮かべた。
「いったい何をお考えなのか知りませんが、今回の件は私が仕切っている。
それをゆめゆめお忘れなく。
必ずアレを…、蒼を仕留める、それだけは約束していただきますよ。」
「うん…、絶対に殺す。だって、アイツは俺の獲物だもん。」
今度は燐斗ではなく、少年がまるで酔ったような口調で答えた。唇には狂気じみた冷笑。
淀んだ瞳はこの場にはいない蒼を捉えているようだった。
官房長官と少年が部屋に戻り、独りになった燐斗は呟いた。
「このままではいけない…、あの子をこのまま、この世界に置いておいては…。
やはり、『アレ』を贄とするしかないのか。」
翌日、改めて蒼は紅が入院している病院を訪ねた。
事件後、カジノは暫く休業となっており、時間に余裕はあった。
紅の呼吸器は既に外されており、会話もできる状態までに回復していた。
蒼はまず、あの日自分が呼び出した所為で紅が襲われる羽目になったことを詫びた。
だが、紅は優しい笑みを浮かべ首を横に振った。
「お前の所為じゃないよ。それに、むしろ私は嬉しかったんだ。
お前が私を頼ってくれたことが、純粋に嬉しかった。
私はお前を一度裏切った人間だというのに。」
紅はまだ、以前の自分自身の過ちに心を痛め続けていた。
蒼は紅をまっすぐに見つめると、今の自分の想いを告げた。
「この前も言ったよね、もう気にしていないって。紅は大切な仲間だって。
今の紅の言葉、なんか…他人行儀で悲しい。」
紅の手が蒼の髪から頬へと滑り降りる。そして、もう片方の手も頬に触れる。
いつの間にか体を起こした紅の顔が間近になる。
まだ体を起こしたらダメだ、と慌てて制しても、紅は大丈夫だと言って聞かなかった。
「お前は本当に優しいな、蒼。」
熱が上がっているのか、酷く熱い紅の手。
「別に優しいわけじゃない、大切な仲間だもん、これくらい普通だよ。
ほら、起きてると体にこたえるよ。」
そう答えると、紅は少しぎこちなく笑い、蒼の頬から手を離すと、
今度は素直にベッドに横たわった。
暫くの間、二人に沈黙が訪れた。
と、不意に紅が口を開いた。先ほどまでよりもずっと真剣な声だった。
「私が襲われたあの日、お前はずっとカジノにいたんだったな。」
頷く。何故、そんなことを聴いてくるのだろう。
だが、「ならいいんだ」と一言だけ言うと、紅はあの日の別の話を始めた。
「正直な話、あまりよく覚えていないんだ。首を絞められたことは覚えているんだが。」
「相手の顔は?」
「覚えていない。ただ小柄な男だった。そう、ちょうどお前くらいの。」
正面から襲われたのに、顔を覚えていない。そんなことがあるのだろうか。
何か、紅は隠し事をしているのか、それとも襲われたショックで記憶が混濁しているのか。
と同時に、紅を襲ったというその人物の姿が、ある人物と重なる。
瑛李のボディーガードの時に自分たちを襲った、あの少年だった。
刹那、蒼の胸が締め付けられるように痛む。
あの少年のことを思い出すと何故か、発作のような症状が起きるのだ。
異変に気付いた紅に心配をかけたくなくて、外の空気を吸ってくると言い、
蒼は紅の病室を後にした。
蒼のいなくなった一人きりの病室で、紅はあの日のことを思い出していた。
自分を襲った人物の顔、本当は覚えていた、否、忘れるはずがなかった。
だが、もしもあの人物が彼ならば、数々の矛盾が生まれる。
身勝手な希望も含まれてはいるが、あれはやはり彼ではないと思うのだ。
同時にまた別の考えも頭を過る。
事件とは関係のない、先ほどの蒼との会話が耳の奥で響いている。
頬に触れた両手が、まだじんじんと熱をもっている。
蒼の頬の方が、よほど冷たかったというのに。
愛しい。
あんなにも深く傷つけたにも係わらず、愛しく想う気持ちを捨てることが出来ない。
気づかれなければ罪にはならない、そう言い聞かせている一方で、
振り向いてほしい、気づいてほしい、碧に対してのように心を開いてほしいと、
そんな許されざることを願う自分がいる。
望むこと、それ自体が既に罪であると知っていながら。
目を瞑り、まだ蒼の頬の感触が残る両手を頬に当て、紅は目を閉じた。
病院を出て蒼がスマホをチェックすると、珪太からメールがあった。
会いたいという彼と、病院近くのカフェで落ち合った。
珪太はフロアマネージャー殺人事件の第一発見者ということで、
今も頻繁に警察に呼び出されているのだという。
珪太曰く、警察は蒼に疑いの目を向けているらしい。
それは、警察だけではく、珪太もまた。
「…俺、あの夜見たんだ。あの部屋にお前が向かうのを。」
苦渋の表情で告げる珪太に、「自分を見た」という時の状況を尋ねる。
珪太の話した内容は、実際の自分の行動と微妙にずれていた。
自分がまだ控室にいた時間に、珪太は間違いなく自分が事務室に向かうのを見たというのだ。
「なあ、蒼。お前じゃ、ないんだよな。」
「うん、俺じゃない、信じて、珪太。」
「俺だって信じたいさ、でも…。」
その時、窓の外に見覚えのある人影を見つけ、蒼は思わず立ち上がった。
帽子を目深に被ってのんびりと人ごみの中を歩いているのは、瑛李を狙ったあの暗殺者の少年だった。
「ごめん、珪太、用事を思い出した!」
千円札を机に置いて、店から飛び出す蒼。
しかし、少年の姿は既にどこにも見当たらなかった。
とにかく、今聞いた話とあの少年が現れたことを碧に知らせなければ。
蒼はスマホを耳に当てた。
碧はT大病院の裏手の細い路地に立っていた。
先ほど、蒼から連絡があり、話したいことがあるらしい。
約束の時間よりも少し前に、蒼はやってきた。
どうやら走って来たらしく、息が弾んでいる。
「こら、お前、最近体調が良くないんだから、無理はするなよ。」
苦言を呈すると、蒼はにこっと笑った。
「平気、このくらい。」
憂いの欠片も感じさせない声と笑顔は、さっきの電話のトーンとかけ離れていた。
「それで、話って?」
問いかけに蒼は周囲を見回してから、強く碧の腕を掴んだ。
「もう少し奥へ行こ?ここだと、誰かに聴かれるかもしれない。」
半ば無理矢理、強い力で腕を引く蒼の横顔を見つめながら、
碧は無言で為すがままに従った。
袋小路の突き当りまで来たところで、碧は蒼の手を振りほどいた。
驚いたように見つめてくる蒼を、真っ直ぐに見つめ返し問う。
「で、蒼。話ってなんだ。」
「うん…。」
蒼の瞳には、何処か不似合いな媚びるような色。
ますます碧の口調が激しくなる。
「さあ、言え。」
普段の蒼に対する態度とは全く違う、威圧的な態度。
無言で、碧に一歩近づいた蒼が、碧の髪に愛しげに触れた。
その手を、強く掴む碧。そして。
「お前は、蒼じゃない。」
強い言葉に、ハッと大きく見開かれた「蒼」の目。
「どうして…?俺のこと、疑ってるの?」
震えた唇。今にも泣きだしそうな表情。
しかし、碧は決して騙されはしなかった。
「お前は誰なんだ、答えろ。」
沈黙。
それを破ったのは、目の前の「蒼」のさも楽しげな笑い声だった。
顔を上げた「蒼」の表情は、本物の蒼と全く別人のものだった。
「なんだ、バレちゃったか。もう少し騙せると思ったのにな。
でも、残念。ばれたからには、死んでもらうしかないね。」
自然な動作で身構える「蒼」。碧もまたガンホルダーに手を遣る。
「お前の名前は?お前は何者なんだ。」
「これから死ぬやつに教える必要なんてないし。」
「つれないなぁ…、俺はお前に興味を持ったのに。」
バカにされたと思ったのか「蒼」の眼光が鋭くなった。
碧は苦笑する。
「悪い意味じゃないさ。…お前からは懐かしい気配がするんだ。」
「懐かしい…?」
「だから、争いはしたくない。」
「なら、争わずに大人しくアンタが死んでくれ。」
「イヤだね。」
張りつめた緊張が、二人の間を流れた。
その頃、蒼は走っていた。何故か酷い不安に駆られて。
早く碧のところに行かなければ手遅れになる、そんな恐怖を孕んだ不安。
待ち合わせ場所の路地裏に、碧の姿はなかった。
時計を見るとちょうど約束の時間。
碧の遅刻は日常茶飯事なのに、急かされるようにして周囲を探す。
そして。
「碧!」
思わず、叫んでいた。
袋小路で碧が対峙していたのは、瑛李を襲ったあの少年だった。
トレードマークの帽子こそないけれど、気配が、
そして何より胸に感じる圧迫感が、あの少年だと知らせるのだ。
ハッとして視線を寄越した碧が、叫ぶ。
「来るな、来るんじゃない!」
切迫した声に、蒼は戸惑う。刹那、少年が楽しそうに笑い出した。
「いいじゃん、来いよ。お前は俺の獲物なんだからさ。
それに…、知りたいだろ、俺の正体。」
ゆっくりとじらすように振り向いた少年。
向かい合った蒼の中で、時が止まった。
まるで覗いてはいけない禁断の鏡を見てしまったように、
そこには、もうひとりの「自分」が立っていた―――。
顔も、背丈も瓜二つの「自分」。
声が、出ない。それどころか体の機能全てが麻痺してしまったかのように動かせなかった。
「改めまして、はじめまして、『俺』。」
伸びてきた手を振り払い、蒼は一歩後ずさる。
戦わなければならない、分かっているのに体が思うように動いてくれない。
次の瞬間、「蒼」の拳が蒼の頬を襲った。続いてみぞおち。
細い体は壁に叩き付けられ、崩れ落ちる。
その隙をついて、「蒼」は袋小路から逃げ出した。
「ま…て…ッ!」
追おうと試み立ち上がろうとする蒼の腕を碧が掴んだ。
「やめておけ、罠かもしれない。」
「でも…。」
今の蒼には、不安しかなかった。
自分と同じ顔を持つ、「S」の暗殺者。
彼は一体何者なのだろう、彼もまた例の研究の賜物なのか。
なんとか碧の手を借りて立ち上がり、呆然と「蒼」の消えた路地を見つめていると、
ふと碧の手が蒼の頬に触れた。
「…ッ。」
「かなり酷くやられたな。熱を持ってる。」
「大丈夫、そんなに痛くないから。」
と次の瞬間、不意に碧が頬を蒼の頬に押し当ててきた。
「!!!!!!!!!!」
「ほら、やっぱり熱い。こうやってると…。」
「離れろバカ!」
グーで思い切り頭を殴ってやる、いったい何を考えているのだ。
白昼堂々、頬を寄せて来るなんて。
「なんだよ、怒るなってこんなことくらいで。俺とお前の仲だろ。」
「うるさい、バカ、消えろ、変態!」
おそらく碧は、不安に揺れている自分を励ましてくれたのだ…、うん、多分…、いや、もしかしたら。
でも、素直に「ありがとう」とは言えずに、無視をして歩き出した。
訳の分からないまま、蒼に置いてけぼりを食らってしまった珪太は、
憮然として病院の中庭のベンチに一人腰掛けていた。
蒼が心を開いてくれない、自分に隠し事をしている、
そのことが珪太を酷く苛立たせていた。
八つ当たりでベンチを殴りつけると、その音に驚いて広場にいた鳩たちが飛び立った。
ぼんやりとその行方を見ていた、その視線の端。
今の今まで自分があれこれと想いを巡らせていた人物の姿が映った。
思わず叫び、呼び止める。
「おーい、蒼!」
だが、蒼は珪太の声など全く聞こえていないようで、病棟の方へと歩いて行ってしまう。
「おい、蒼!」
慌てて駆け寄り背後から肩を掴んだ。ビクッ、と震える蒼。
振り向いたその表情は、純粋な驚きを浮かべていた。
「用事終わったのか?終わったならあそこで話そうぜ?」
きょとん、としている蒼の袖を強引に引いて、無理やりベンチへと連れていく。
ベンチに座らせるとやっと蒼は事態を理解したようで、
珪太をまっすぐに見つめてぺこりと頭を下げた。いつものように。
「ごめん、さっきは。」
面と向かって素直に謝られると、怒る気も完全に失せてしまい、
かえって珪太の方が恐縮してしまった。
そんな姿に明るく笑って見せる蒼。
いつもよりも翳りのない笑顔だった。
やはりあの事件のことについては、警察にも話していないから、という理由で、
何も話してくれなかった蒼だけれど、代わりにいつもよりもいろいろな話をした。
と言っても、蒼が質問をして、珪太が答える、というパターンがほとんどだったけれど。
蒼が自分に興味を持ってくれていたことが、なんとなく面映ゆかった。
結局、一時間くらい二人でくだらない話をした頃、蒼が時計を見て声を上げた。
「あ、もうこんな時間…。」
「そういえばお前、何処かへ行く途中じゃなかったのか?」
そういえば、蒼は何処かへ移動している最中だったのだ。
それを呼びとめて、はや一時間。
「ううん、もういいんだ。」
「悪かったな、長々と引き留めて。」
しかし、蒼はにっこりと笑って答えた。
「いいんだ、本当に楽しかったから!珪太と話すの、すごく楽しい。
だから…。」
不意に、蒼が俯いた。そして。
「また、会いたいな。」
消えそうな小さな声は、珪太の耳に届く前に消えてしまった。
突然の蒼の変化に、珪太は驚いてその顔を覗き込んだ。
双眸にはうっすらと涙が浮かび、やがて頬を伝った。
慌てて目元をこする蒼。
「な、なんでもないんだ。…それより明日、また会えない、かな?
ほら、カジノが休みの間は機会を作らないと会えないからっ。」
おかしい、いつもの蒼ならこんなことを口にするはずがない。
蒼の顔をじっと見つめていた珪太はあることに気づいて、息を呑んだ。
この少年は、蒼ではない――。
さっきまでは気づかなかった、この少年の目元にはほくろがあることに。
おそらく化粧で隠していたのが、目を拭った時に落ちてしまったのだろう。
この少年の正体は、一体。
だが、正体はわからなくとも、今の彼からは敵意は全く感じられない。
むしろ、友愛の情さえ感じられる。
ならば、何も問題はない。
それに、自分の方も、この少年のことが気に入ってしまった。
何処か寂しげな表情も、とても捨ててはおけなかった。
「明日か、いいぜ。」
パッ、と少年の表情が明るくなった。
二人は結局、明日の一時に新宿駅で待ち合わせることを決めて、別れた。
珪太が帰ろうと踵を返すと。
「珪太っ!」
背後から突然名を呼ばれ、ビクッとして振り返った。
そこには、本物の蒼が息を切らして立っていた。
さっきはごめん、と謝る蒼に、もう気にしていないと笑って、逃げるように帰路に着く。
なんとなく、あの少年とのことが後ろめたくて。
背中に疑念の眼差しを感じながら、振り返ることなく珪太は病院を後にした。
珪太と別れてから、蒼は紅の病室へと向かった。
そして、今日起こった出来事を話した。
「紅を襲ったのは、あの俺と同じ顔をしたヤツだったんだろ?
だからあのとき、覚えていない、って言ったんだ。」
「ああ、疑うような真似をして悪かった。」
「気にしないで。むしろ、俺のことを信じてくれてありがとう。」
少し笑みを浮かべた蒼は、しかし、そのまま俯いてしまう。
まるであの少年は、未来の自分の姿のようで。
いつか自分も、あああやって人を殺めることを楽しむ日が来るのかもしれない。
碧はそんなことはないと言ってくれたけれど、だが間違いなく、
自分の中には人を殺め、血を啜ることを好む悪魔がいるのだ。
「蒼…。」
震える躰を、紅の両腕が包み込んでくれた。そのままそっと頭を撫でられた。
「不安になることはない、お前は優しい子だ。
こんな私のことも見捨てずにいてくれる。笑いかけてくれる。
お前は自分が思っているよりもずっと強い人間だ。だから、大丈夫。」
紅の胸の中は温かで気持ちよかった。
「私は…、お前に何もしてやれない。与えてもらうばかりで、何も与えるものがない。
お前を安心させる言葉さえ、持ち合わせていない。だが。」
短い沈黙。そして。
「お前のことを、信じている。」
見つめあう瞳に嘘はなかった。紅は続けた。
「蒼、私は…、私はお前のことを、あ――。」
しかし、ノックの音が二人の距離を遠ざけ、紅の口を紡がせた。
入ってきたのは、若い看護士だった。
入れ替わるようにして、蒼は喉が渇いたから買い物してくる、と部屋の外に出た。
看護士が出ていき、独りになった紅は俯き乱暴に髪を掻き上げた。
蒼に告げようとしてしまった言葉に、後悔する。
自分には、彼にかの言葉を言う資格などないのに。
それでも日に日に想いは大きくなるばかりだった。
もはや、自分の中に隠しておくことができなくなるほどに。
結局、病室から出て行ったまま、その日はもう蒼は戻ってこなかった。
代わりに病室にやってきたのは、碧だった。
ちょうど廊下で蒼に会い、体調が悪そうだったから帰るように伝えたのだという。
よほど具合が悪かったのだろう、珍しくすんなりと受け入れて家に帰って行ったという。
「蒼から大体の話は聞いたか?」
「ああ、私を襲ったのも、その蒼と同じ顔をした人間に違いない。
蒼のカジノのフロアマネージャーを殺したのも、おそらくその少年だ。」
「俺もそう思う。だが、動機が分からない。本当のターゲットは多分、蒼に違いない。
それはいいとして、だ。」
「蒼に何をしたいか分からない、と言いたいんだろう?殺したいのか、捕えたいのか。」
冷静に分析をしていく紅。
「私には、この事件にはいくつもの意図が絡み合っているように感じられる。」
一見綿密に練られたようで、実際は何処か統一感に欠けている。
「俺もそれは思った。…実はな、昨日、硝に会ったんだ。」
碧の言葉に紅の表情が険しくなった。
「硝に…?」
「ああ、呼び出されて。大した話じゃなかったんだが、あの男が絡んでいるのは間違いない。
昨日の件はさしずめ、宣戦布告だろう。
少なくとも、あの男は蒼を殺そうとは考えていない。捕えて、研究を続けるつもりだろう。」
二人の間を、沈黙が流れた。
意を決したように、紅が碧を射抜くように見つめ、言った。
「蒼を本当の意味で守れるのは、お前しかいない。
絶対に蒼を独りにするな。繋いだ手を…離すな。」
無言で碧は頷いた。
紅が胸の中で抱いている蒼への想いも含めて。
すると紅は碧に問いかけてきた。
「お前は、蒼のことをどう思っている?」
不意打ちのような問いかけだった。
義弟、パートナー、でも、それだけじゃない。
ただ、その関係の、その感情の名前を、碧自身理解できていない。
失いたくない絶対の存在、それだけは間違いなく言えるのだけれど。
「別に答えなくてもいい。お前の中で、本当は答えは出ているはずだからな。」
結局何も答えられないまま、ただ碧は窓の外の夕闇を見つめるのだった。
翌日、珪太は約束通りの時間に待ち合わせ場所に行った。
そこには既に「蒼」がいた。
「蒼」の希望で動物園に向かう二人。
「蒼」は動物園で子どものようにはしゃいでいた。
まるで初めて動物園に来た幼稚園児のように。
周囲には奇異な眼差しを向けてくる者もいたが、平日で人が少ないのが救いだった。
喉が渇いたからと、ベンチに「蒼」を腰掛けさせ、ジュースを買って戻ってくると、
「蒼」は檻の中の豹をぼんやりと見ていた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「動物園の動物って、可哀想だね。こうやってずっと閉じ込められて…。
まるで俺みたいだ。」
とても本物の蒼が言うとは思えない言葉に、珪太は確信した。
そして、逃げられないように強く「蒼」の腕を掴んで意を決して告げた。
「…お前は、蒼じゃない。」
すかさず逃げようとする「蒼」を力ずくで引くと、バランスを崩し再びベンチに座り込んだ。
珪太はまっすぐに「蒼」の目を見つめた。本当の彼を見失わないように。
「教えてくれ、お前は誰なんだ。」
観念したようで、「蒼」はそれ以上逃げようとはしなかった。
それまでの明るい笑みとは違う、不敵な笑みを浮かべ、
ぞくりとするほど冷たい眼差しを珪太に向けた。
「あーあ、ばれちゃったか。そ、俺は蒼じゃないよ。」
「お前の名前は?」
「関係ないだろ、あんたには。
あんた、俺があんたたちの店のマネージャー殺したことも分かってるだろ?
…さ、この手を離せよ。俺の気が変わらないうちに。」
それは暗に手を離さなければ殺す、と言っているようなものだった。
だが、珪太は無意識に叫んでいた。自分でも信じられないくらい、強く。
「関係なくない!俺はお前の本当の名前が知りたいんだ!
友人として…、俺はお前ともっと仲良くなりたいんだ!」
驚き、大きく目を見開いた「蒼」。すぐさま伏せられる瞳。
「玲…。」
それは聞き取れないくらい小さな声だったが、珪太にははっきりと聞こえていた。
そっと、珪太は玲の腕を離し、微笑んだ。
「玲、って言うのか。綺麗な名前だな。
なあ、玲、これからも俺たちは友達として…仲良くしようぜ。」
顔を上げる玲。
「珪太にとって、蒼は友達なのか?」
頷く珪太。
「ああ、大事な友達だ。」
暫しの沈黙があった。しかし、その後に玲の口から嘲笑が漏れた。
珪太を見た玲の瞳は先ほどよりも冷たい色をしていた。
「そっか。なら、珪太は俺の敵だ。」
珪太は、息を呑んだ。二人の間を吹き抜ける突風。まるで永遠の決別のような。
珪太の反応を楽しむように、玲は笑っていた。
「珪太に最後にいいことを教えてあげる。
蒼の秘密。蒼の本当の姿。」
蒼の秘密、知りたくないと言ったら嘘になる。
けれど、今はそれ以上に大切なことがある。玲に伝えたいことがある。
それなのに、喉が凍り付いてしまったかのように少しの声さえ出なかった。
沈黙を肯定と取り、玲が話し始める。
蒼の、決して知ってはならなかった、秘密を。
待ち合わせの公園の入り口で、蒼は一人で佇んでいた。
突然、珪太が電話をかけてきて「会いたい」と言ったのだ。
時計は既に六時を過ぎ、周囲は薄暗くなってきていた。
暫くして、珪太は現れた。二人は身近なベンチに座った。
沈黙が、続いた。
膨らみ始めた桜の蕾を、強い風が揺らす。春の嵐。
雲行きが怪しくなってきた。
「蒼。」
呼びかけられたその声には、決意と疑念が揺れていて、
もうこれ以上、珪太に嘘をつくことはできないと、蒼は観念した。
雷鳴が遠くで響いた。
「蒼、お前は…、人殺しなのか。暗殺者、なのか。」
ぽつり、ぽつりと空から雨が落ちてきた。すぐさまそれは豪雨に変わる。
珪太の言葉に、蒼は終わりを悟った。
珪太とのごく気楽でありふれた…、でも大切な友人関係も、これでおしまい。
暗殺者としての素性を知られてしまった以上、今までのような関係でいられるはずがなかった。
「…誰からそんなこと、聞いた?」
「そんなこと、どうでもいいだろ!俺の質問に答えろ!!」
体を打つ雨が冷たかった。
蒼は吐息を吐くように笑った。
「ああ、アンタの言う通り。俺は暗殺者だ。血も涙もない、人殺しだ。」
まっすぐに珪太を見つめ、見せつけるようにわざとクスクスと笑う。
珪太は呆然と蒼を見つめ返している、体も唇も、小刻みに震わせて。
「勘違いしてほしくないのは、マネージャー殺しは俺じゃない。
俺はあんな雑魚に興味はないんだ。
…さあ、これで分かっただろ?あんたと俺は、住む世界が違うんだ。」
一呼吸おいて、そして。
「二度と俺に近づくな。」
雷光が、灰色の空を切り裂いた。
青白い光に照らされた蒼の顔は、冷徹な暗殺者そのものだった。
ベンチから立ち上がり、無言で歩きだす蒼。
その背中に、珪太の声がかけられることはなかった。
何物をも拒む様な蒼の背中に声をかけることすらできず、珪太は雨の中独り項垂れた。
さっき、玲の口から聞いた真実――蒼が暗殺者であること、それは正しかった。
蒼も玲も、自分の元を去って行った。大切な友達を二人も失ってしまった。
せっかく少しでも心を通い合わせることができたのに。
だが、珪太はここで立ち止まってしまうような人間ではなかった。
失ってしまったなら、もう一度取り戻せばいいのだ。
今、初めて、珪太は本当の意味で二人のことを知りたいと思った。
それがたとえ闇であろうと、蒼の、そして玲の全てを。
今まで以上に強い意志を秘めた瞳は、降りしきる雨を包み始めた闇を、しっかりと見据えていた。