No.2
ずぶ濡れで家に帰った蒼を迎えたのは、碧だった。
あまりの姿に驚いた顔をし、慌ててタオルを取りに行こうとしたが、蒼は冷たく拒否した。
「どうした、何かあったのか。」
今は誰とも話したくなかった。たとえ、碧でも。
「おい…。」
肩を掴む碧の手を振り払い、歩き出す。
「お前、こんなにびしょ濡れで、体に応えるだろう。
もう少し、自分の体のことも考えろ。」
いつもなら素直に聞ける言葉も、今日は耳に入れたくもなかった。
「なあ、蒼。お前の体は決して丈夫じゃないんだ。もっと大事にしろよ、自分の体を。」
「……どうだっていい。」
「なに…?」
「こんな体、どうなったっていい!人を殺さなきゃ生きていけない体なんて!
俺は…、俺は狂気に飲まれる前に、死んだ方が…!!」
パシッ―――!
碧の手が、蒼の頬を叩いた。碧は少し怒ったような、それ以上にとても悲しげな瞳をしていた。
蒼は叩かれた頬を押さえ、俯いた。
「そんな言葉、二度と口にするな。」
言い終わらないうちに、碧の腕が蒼の体を抱きしめた。息が苦しくなるほど、強く。
「俺は、お前を守りたいって言ったよな?
今の俺にとって一番重要なことは、お前を守ることなんだ。
お願いだ、信じてくれ。俺にとってお前は大切な…必要な人なんだ。」
温かい言葉が凍えた胸を溶かしていく。また碧に甘えてしまう。
こうやって抱きしめられるたびに、自分が抱く碧への想いが変わっていくことに、
蒼は気づき始めていた。
だから。もうこれ以上、碧を悲しませたくないから。
「変なこと言って、ごめん。それに…、ありがとう。」
表情を和らげ謝罪の言葉を告げると、碧は静かに首を横に振った。
「いいんだ、俺の方こそぶったりして悪かった。」
「ううん、目が覚めた。」
やっと蒼も心から微笑むことが出来た。
「蒼…。」
強く、碧が蒼の両腕を掴んだ。そして。
軽く目を瞑った碧の顔が、近づいてくる。互いの前髪が触れた。まさか、これは。
どうしていいのか分からず、蒼は思わず体に力を入れ、目をぎゅっと瞑った。
一瞬の、間。
頬に温かな唇を感じた。ゆっくり、おずおずと目を開ける。
あまりに近すぎて碧の顔を見ることが出来なかった。
暫くしてから、碧の唇は蒼の頬から離れた。心臓が酷く高鳴っている。
「そんな顔されちゃ、唇にはできないからな。ざーんねん。」
くすくす笑う碧に頬が紅潮するのを感じながら。
「俺、シャワー浴びてくる!」
慌てて風呂へと走り出す。
その背中に「俺が温めてやってもいいんだぞ」という笑い声が聞こえてきたが、
そんな悪ふざけにも反応できず、逃げるように風呂場のドアを閉めた。
頬を染めたまま足早に去っていく蒼を微笑みながら見送っていた碧の笑みが、
不意に苦い物に変わる。そして、小さく呟く。
「…義兄失格、かな。こんな感情抱くなんて。」
この想い。蒼に対する気持ち。少しずつ気づき始めていた。
総理公邸に戻った玲は、自分の部屋でベッドに伏して泣いた。
わあっ、という泣き声は、部屋の外にまで聞こえていた。
せっかく、友達になれると思ったのに。楽しかったのに。
本当は、「蒼」としてでもよかったのだ。珪太が友達だと認めてくれるならば。
「玲」として友達になって欲しい、などというワガママを願ったから、
こんなことになってしまったのだ。
それでも、去り際に叫んだ珪太の言葉が、未練のように耳の奥に響いている。
俺は、お前自身のこと、「玲」のこと、友達だって思ってるんだぜ!
蒼と重ねてるんじゃない。だから、また会おうな!
「どうして…、なんだよぉ…。」
どれだけ泣いても、壊れてしまった関係は二度ともとに戻るはずがない。
「玲どうしたんだい。」
部屋の外から響く優しい声は、燐斗の声だった。
父と慕う燐斗とさえ、今は何も話したくなかった。
ドアが開く音とともに、足音。燐斗の気配が近くにあった。
「玲。」
「燐斗…っ!」
こらえきれなくなって、独りではやはり辛すぎて、玲は燐斗に抱きついた。
そして、今までよりも激しく泣き始めた。
「せっかく…せっかく友達になれると思ったのに…!」
「友達?」
燐斗には珪太とのことを話していなかったことを思い出して、玲はすぐに口を噤んだ。
自分には、「S」の道具には、友達を作ることなど、許されてはいないのだから。
しかし、燐斗は玲の背中を撫でて穏やかに言った。
「玲、お前の気持ちを、私はよく知っているよ。」
こくり、と玲は頷き、燐斗の胸に頬を摺り寄せて泣いた。
泣きじゃくる玲をなんとかベッドに就かせ、眠りに落ちたのを確かめて、燐斗は自室に戻った。
「友達、か…。」
玲の本心はずっと前から知っていた。あのくらいの年ごろならば当然のことだ。
それなのに玲は外に出ることさえも制限され、毎日研究材料としてラボに通うことを強要されていた。
そして、物心が就く頃には既に人を殺めることを教えられていた。
だが、燐斗だけは本当の玲を知っていた。本当の例は、無邪気で動物を愛する優しい少年であることを。
「もう、限界だな。」
やはり、玲が住むべき世界はこんな世界ではないのだ。
太陽の光の下でこそ、玲は生きるべきなのだ。
そのための多少の犠牲を、燐斗は厭わなかった。
トントン――。
思考を遮るようにノックの音が響き、薄らと笑みらしきものを浮かべながら入ってきたのは硝だった。
「悪いね、わざわざ来てもらって。」
「いいえ、構いません。坊やたちの話でしたら、喜んで。」
狂気じみた瞳には、愉悦も滲んでいる。
この狂人が、あの子供たちに忌まわしい呪いを施したのだ。
この男の所為で、あの子たちは苦しんでいるのだ。
硝に対する憎しみと軽蔑は、今でも燐斗の胸の中に静かにくすぶっている。
「それで、燐斗様、貴方の答えは?」
答え――。
それは、一人を救うために、一人を犠牲にするかの選択。己の満足と幸福の為に、他者を生贄とするかの選択。
「悩むことなどないでしょう?これは彼らがどちらも幸福になれる、唯一の選択なんですから。
昔々、取り違えられてしまった居場所を正す、ただそれだけなんですから。
貴方が愛する坊やは天使の加護を受けて生まれ、私の愛する坊やは悪魔に祝福されその血を受け継いだ。
それなのに、今の二人の居場所は全くの逆だ。それでは二人とも幸せになれない。」
一瞬の沈黙ののち、ゆっくりと燐斗は頷いた。
「分かった。貴方の提案を飲もう。」
「ご理解いただき、恩に着ます。
それではあの子を私のところに連れてきてください。方法は問いません。
私の元からあの子は二度と逃げることはできませんから…。」
もう一度燐斗が頷いた、その時。
激しいノックの音が、部屋に響き、燐斗も硝も同時に眉を顰めた。
返事も待たずに入ってきたのは、官房長官だった。その隣には何故か玲もいた。
玲の表情からあの悲痛さは消え、代わりに狂気じみた笑みが浮かんでいた。
「もうまどろっこしいことはやめましょう。
玲にあの生意気なガキ…蒼を直々に殺させます。これは官房長官命令だ。
それに、この子自身がそれを何より望んでいるんですから。」
最も望んでいなかった方向に、事態は転がり始めた。
お手並み拝見、とばかりに無関心な硝とは対照的に、燐斗は拳を強く握りしめた。
あの二人が殺し合うことだけは、何があっても避けなければならない。
なぜなら、彼らは―――。
10年以上前の、あの日。朝から激しい雨が降る日だった。
研究員の一人が、血相を変えてラボに飛び込んできた。
そこには燐斗と硝がいた。
「No.RE-Redrum3Xが、消えました!」
「なんだって…。」
燐斗が眉を顰めた。No.RE-Redrum3Xとは、硝が手掛けた研究によって生まれた赤ん坊につけられたナンバーだった。
「同時に、珀様たちも!」
しかし、この状況で最も慌てるべきはずの硝は、何故か薄らと笑っていた。不気味なほど静かに。
「どうせそうなると思っていました。それで、消えたのは3X-sの方でしょう?rではなく。」
「それが…、rが、rが消えたんです!」
「ッ!?」
初めて、硝の顔色が変わった。
「何故だ!アイツらが知っているのはsの存在だけ!それなのに何故、rが…。
rがいなければ、この研究は…!
探せ!探し出すんだ!珀たちなど殺してもいい。何としてでもrを取り戻せ!」
発狂したかのように叫び手当たり次第に物に当たる硝から逃げるように、研究員は駆け出して行った。
その様子を隣で見ながら、燐斗は胸の内で呟いていた。
これは、神の思し召しなのか、と。
玲と蒼、それぞれとの決別の翌日、珪太は正午に目を覚ました。
前日の久しぶりの自棄酒たたったようで、頭痛が酷い。
それでも既に、昨夜、決心はついていた。
蒼のこと、玲のこと、全てを知る。その為に、今日から行動すること。
とはいうものの、何処から何から手をつけていいのか分からない。
そんなとき、ふと思い出したのは、蒼の家に行ったときに碧からもらった名刺だった。
何かあった時にはいつでも連絡してください、という言葉に、今こそ頼らせてもらおう。
数度の呼び出し音の後、碧が応電した。
「碧さんのお電話ですか?先日お邪魔した、貝沼です。貝沼珪太。」
「ああ、珪太さんですか、お久しぶり。」
親しげにファーストネームを呼ぶ碧の声にまず安堵し、会って聞きたいことがあると率直に告げると、
碧はいいですよ、と了承してくれた。
夜の八時に珪太の家から至近のM駅で待ち合わせることを約束して、電話を切る。
そういえば、新聞を入れていなかったことに気づき、新聞受けを開けると、
新聞と一緒に一枚の紙が張り付いてきて、床に落ちた。
紙にはパソコンの文字で「これ以上の詮索はよせ」と書かれていた。
「なんだっ、これ!」
気味が悪くなり、ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。
あれは誰がどう見ても脅迫文だ。だが、冗談じゃない。
これくらいの脅しに屈するくらいなら、最初から首を突っ込んだりしない。
だが、自分も何か得体のしれない大きな渦の中に巻き込まれかけていることに、
珪太もうすうす気づき始めていた。
午後七時三十分。待ち合わせ場所のM駅に向かって、珪太は家を出た。
昨夜の嵐とはうって変わって今日は快晴で、月が綺麗に見える。
軽い足取りでアパートの階段を下りた、刹那。
キキーッ――!
自分に向けて突っ込んできた車。咄嗟に細い横道へと逃げ込んだ。
響き渡る急ブレーキの音を残して、車は走り去った。
今朝の投げ込みに続き、またも。
気持ちを引き締め、なるべく人通りの多い道を選んでM駅へと向かった。
予定通りの時間に、M駅にはついた。まだ碧の姿はないようだ。
約束の時間の十五分前、手持無沙汰で近くの街灯に寄りかかった。
パン――!
突然破裂音が響き、ほぼ同時に頭上で何かの割れる音がした。
「危ない!」
誰かの叫び声、体ごと突き飛ばされる。
道路に転がり、今まで自分がいたところを振り返ると、粉々に砕け散った街灯のガラスが散乱していた。
「大丈夫でしたか?」
自分を助けてくれた男性が言った。この人がいなければ、今頃自分は…。
「は、はい!ありがとうございました…、って、あれ、碧さん!?」
頷いた碧は珪太の手を取って立ち上がらせる。
「一刻も早くここを離れましょう。騒ぎが大きくなる前に。」
言われるがまま、路駐してあった碧のBMWに乗り込んだ。
碧に案内された場所は、都内でも有名なイタリア料理店、それもVIPルームだった。
ボロアパート住まいの珪太の月給何か月分だろう。
遠慮をしようにも、既に料理も注文してあるという。
キャンセル料だってタダではない、大人しく言われるままに席に着いた。
暫く二人は料理を楽しんだ。が、珪太の舌ではこれが美味しいのかよく分からなかった。
それに比べて碧は様になっている。さすが、あれだけの家に住んでいるだけのことはある。
食べ終わった頃を見計らい、碧の方から珪太に水を向けてきた。
「では、本題に入りましょうか。
どうぞ、何でも聴いてください。どんな質問にもお答えしましょう。」
ごくり、と唾を飲みこみ、珪太は碧をまっすぐに見つめて問うた。
「蒼君は、人殺しなんですか?彼の正体は「暗殺者」なんですか。」
答えは、イエスだった。しかも、それだけではなく。
「俺も、あの家に住んでいる居候二人も皆、暗殺者です。
ただ、貴方に分かって欲しいのは、何も俺たちは無差別に人を殺しているわけじゃない。
俺たちは秘密犯罪組織「S」の構成員のみを殺す「組織」の暗殺者なんです。」
秘密犯罪組織「S」。物語でしか聞いたことがない名前が、本当に存在していたとは。
それも、こんな身近なところに。
「そして、奥多摩であった一家惨殺事件…、蒼だけが生き残ったあの事件の首謀者も、
例に漏れず「S」の幹部でした。」
それから碧は、あの事件の真相を話してくれた。蒼が「S」で生まれたこと。
蒼の父親は「S」の研究者だったが、妻と蒼を連れて「S」から逃げたこと。
そして、最後は「S」の幹部により、蒼以外の家族全てが惨殺されたこと。
「その後、あの子は母方の親戚をたらい回しにされ、見かねた俺は自分の父親に無理を言い、
自分が家を出ることと引き換えにあの子を養子としてもらいました。」
それで蒼と碧は血の繋がりのない兄弟なのか。
そうやって、碧は蒼を守り続けてきたのか。
「暫くの間はそれなりに平和でした。
けれど、「S」はあの子の居場所を嗅ぎつけ、俺が不在の時にあの子を殺そうとしたのです。
ですが、あの子はその「S」の構成員を反対に殺してしまった。…彼の父の形見の銃で。
一度「S」を殺してしまったからには、一生「S」に狙われる。
だから俺は、蒼を「組織」の暗殺者にしたんです。自分の身を自分で守れるように。
これが…、真実です。」
そういうことだったのか。
蒼は人を殺さなければ生きることが出来ない運命に置かれているのか。
それなのに自分は。
「ごめんなさい!」
珪太は深く頭を下げた。体が震えていた。
「俺…、何も理解しないで、蒼を傷つけた…。」
蒼のことだ、これ以上巻き込みたくなくて、自分を突き放すようなあんな物言いをしたのだ。
そんなことさえ分からずに、何が友人だ。
昨日の蒼の、あの冷たい瞳を思い出す。
そうだ、あの冷たさの奥にあったのは、いつもと同じ、寂しそうな色だった。
「俺、謝らなきゃ。蒼に、謝らなきゃ…!」
「珪太さん。」
碧の手が、机の上で震える珪太の手を優しく包み込んでいた。
その頬には穏やかな微笑が浮かんでいた。
「ありがとう。
あの子のことを認めてくれて、ありがとう。あの子の気持ちを理解してくれて、ありがとう。
あの子の生き方を許してくれて…、ありがとう。」
「お礼なんて、そんな!違うッ、俺は傷つけてしまったんだ!大切な友達を!!」
「そんなに自分を責めないで。
…あのね、珪太さん、今日話したことは全て、蒼が貴方に伝えて欲しいと言ったことなんです。
あの子はこうも言っていました。
『俺が裏切ったこと、珪太が許してくれるとは思わないけど、でも、全部知って欲しい』って。」
だからまだ、手遅れではないですよ、と笑う碧に珪太は頷いた。
「俺、ちゃんと蒼に謝ります。謝って…、また友達に戻って欲しいって言います。」
「ありがとう、貴方は優しくて強い人だ。蒼の言っていた通り。
…ところで、他に聴きたいことはありますか?」
一口、水で口を湿してから、碧が改めて尋ねてきた。
蒼の件は全て理解できた。
ならば次は。
「あの、碧さん、玲って知ってますか。」
「レイ?」
首を傾げる碧に、演技をしている様子はなかった。
そこで珪太はあの日、最後に会った日、玲が珪太に告げたもうひとつの真実を口にした。
「玲っていうのは、蒼の―――。」
「なっ…!」
碧の顔色がサッと変わった。
珪太は玲について自分の知りうる限りの情報を碧に伝えた。
「あいつ、悪いヤツじゃないんです。だからお願いです、碧さん。
アイツを連れ戻すのに協力してくれませんか。」
「分かりました。彼がそういう人物だと分かれば、放ってはおけないでしょう。」
「ありがとうございます!」
蒼と玲が憎みあう今の状況だけはなんとかしたかった。碧が協力してくれるなら心強い。
あともうひとつ、自分に対して敬語を使うのは辞めて欲しい、とお願いすると、
碧は楽しそうに笑い、分かった、と頷いてくれた。
珪太にとって、碧は外見も内面も憧れの人になっていた。
その碧に「これからもよろしく頼むよ」と言われ、有頂天で珪太は大きく頷いた。
スマホのディスプレイを時々気にしながら、蒼は碧の帰りを待っていた。
珪太に自分のことを全て告げてもいい、と碧に言っておきながら、
そのことを少し後悔していた。
一方で、珪太という友人を失いたくないという気持ちは、偽りない素直な気持ちだった。
自分の過去を、全てを知ったうえで珪太が自分のことを受け入れられないならばそれでいい。
けれど、真実を伝えることなく別れてしまうのは悲しすぎた。
こんな感情を抱いたのは、初めてだった。
学生時代、巻き込みたくなくて、親しい友人ができるのを避けていたのは自分の方なのに。
それでも、珪太だけは何故か特別だった。あの笑顔を失いたくなかった。
胸に重い痛みが走る。また軽い発作が起こっている。
最近、発作の回数が増えている。疲れているのだろうか。
全身を襲う脱力感に身を任せ、ベッドに横たわると、スマホが振動した。
碧だろうか。
慌てて着信番号を確認するが、知らない番号だった。
小さくため息を吐き、ベッドから身を起こし電話に出る。
「やあ、蒼。こんばんは。」
冷たい、感情を感じさせない、不気味な声の主――硝だった。
少し話したいことがある、という硝に、にべもなく拒絶をするが、
クスクスと笑い、硝はとっておきのカードを切ってきた。
「これ以上、犠牲者は増やしたくないだろう?たとえば、珪太クンとか。
…さあ、君に拒否権はないんだよ。
君の家の傍の建設途中で放置されている家があるだろう、あそこに来なさい。
待ってるよ、可愛い坊や。」
言葉をさしはさむ間もなく、電話は一方的に切れた。
選択肢は、一つしかなかった。
痛む胸を押さえ、蒼はジャケットを羽織ると家を出た。
指定された建物の奥の部屋に、硝はいた。
白衣は夜の闇に良く映え、その姿は異様な神々しさを以て蒼を圧倒した。
胸の重さが増していく。立っていることさえ、苦しいほどに。
ニィ、と硝が笑った。
「苦しそうだね、やはり限界が近いのか。
だからこそ、君に私の元に帰ってきてほしいんだ、君自身のためにも。」
やはり、その話だったのか。
「断る。」
きっぱりと言い切ると、ますます硝は笑みを深める。
「そう…、君は何も分かっていないな。
君がそういう駄々をこねることで、たくさんの人が傷ついていく。
それでも君はいいのかい?」
一瞬、息が止まった。紅も珪太も、自分がいなければ傷つくことはなかった。
けれど、今、「S」に戻れば、自分は今度こそ間違いなく殺人鬼に堕ちてしまう。
見境もなく人を殺すだけの道具に。
どうすればいい、どうすれば大切な人たちを失わなくてすむ?
たったひとつ、方法があった。
「…アンタを、此処で殺せばいい。」
冷たい、凛と響く声。蒼のピストルが硝の額に照準を合わせた。
硝の瞳が、まっすぐに蒼を見つめる。
冷たい、感情のない瞳。何処までも深い闇。
その闇の中に、蒼の意識は飲まれていってしまう。
自分で自分を保つことができない。
ああ、どうして。
体中から力が抜け、指一本動かすことさえ叶わず、
気づいたときにはピストルを取り落とし、硝の腕の中に閉じ込められていた。
「君には、できない。君は、私を殺せない。」
病的に白い硝の手が、蒼を乱暴にかき抱く。右手が、ぐいと顎を上げる。
間近で見つめあう瞳、もう逃げられない。
「心も体も…私のものにしてあげるよ、蒼。
本当はずっと欲しかったんだろう?義父たちから与えられた、あの熱が。」
硝はポケットから出した小瓶の液体を口に含み、そして蒼の唇を強引に塞いだ。
逃げる間も拒む間もなく、口移しで飲まされる液体。
胃に達した途端に、異様な熱が生まれる。体中が火照り、疼きだす。
「何を…飲ませた…っ。」
答えることなく硝は蒼のうなじに触れた。ぞくり、とそこから走る震えは心地よくて。
もう一方の手は、器用に蒼のシャツのボタンを外していく。
「蒼、お前は私のモノなんだ。白い肌も、うなじも、黒い瞳も、赤い唇も全て…。」
シャツの間から覗いた肌に、口づけられる。嫌なはずなのに、体は歓喜に震える。
熱い。何もかもが熱い。硝に触れられた場所が焼き切れそうだ。
このまま、身を委ねてしまったら。
何もかも、この人に捧げたら。
首筋に押し当てられた唇、強く吸われて残される所有の痕。
逃げたい、怖い、それなのに、血の呪縛が蒼の自由を奪う。
「い…や…っ。」
もはや否定の言葉さえ熱を孕み、まるで強請っているような声音だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
こんなの、嫌だ。
だって、自分にとって一番大切なのは。
一番必要な人は。
助けて、助けて!
碧―――!
「蒼ッ!」
闇を切り裂くように響いた、自分の名を呼ぶ声。待ちわびた人の声。
もはやなけなしの力でそれでも硝を振り切り、蒼は声の主――碧の胸に縋りついた。
「遅くなってすまなかった、蒼。」
首を横に振り微かに笑むことが、今の蒼に出来る精一杯だった。
碧の腕に包まれて、蒼の体はまだ発作の痛みと恐怖、
そして抑えきれない熱に震えていた。
くん、と碧が匂いを嗅ぐような仕草をし、不自然に火照った蒼の頬と、
妖しげな色に支配された瞳を見て、硝をグッと睨みつけた。
「貴様…ッ、蒼に何を飲ませた!」
「見れば分かるでしょう、媚薬ですよ。」
「こんなものを飲ませたら、蒼の心臓は!」
「…貴方には関係ないでしょう。蒼は私の可愛い人形なんですから。
何をしようが、私の自由ですよ。」
「何度言えば分かる!蒼は貴様のモノなんかじゃない!」
碧の言葉が、行動が、蒼にはとても嬉しかった。
碧の腕に抱かれていると、胸の痛みも少しずつ和らぎ、体の熱も落ち着いてくる。
碧が来てくれて、良かった。心からそう思う。
硝は黙って寄り添う二人を見ていたが、ふいに笑った。
「まあいいでしょう。いつかは私の言っていたことが正しいと分かる日が来ますよ。
それまではもう少し、楽しませてあげましょう。」
歩き出す硝、碧とすれ違いざまに一言。
「殺さないんですか、私を。貴方の大切なモノを奪おうとする、私を。」
碧は何も答えず、噛みつかんばかりに硝を睨みつけた。
「殺せませんよねぇ。私を殺したら、この子を救う手がかりを完全に失うことになる。
私を殺す、イコール、この子を殺すこと、ですからね。」
去り際にふと振り向いて、硝は蒼の名を呼んだ。聴きたくない。
「いつまで君がワガママで周囲の人間を傷つけ続けるのか…、
楽しみに見守らせてもらうよ。
とりあえず今夜は、大切なお義兄さんに壊れるまで抱いてもらうがいい。
では、良い夢を。」
「もう奴はいなくなった。大丈夫だ、蒼。」
碧の腕の中、既に硝が去ったことを理解しても、蒼の体は恐怖と熱で震えが止まらなかった。
自分はもうずっと、硝から逃れられないのだろうか。
あの瞳に見つめられただけで、体も心も自由を奪われてしまう。
そして、硝が言ったように、生死までもともにしているというのならば。
「碧…、俺の体は…。」
いまさら、やっと気づき始めていた。この躰に起こりはじめていること。
体が、既に壊れ始めていること。
命の灯は、少しずつか細くなってきている。きっと、この躰は…。
「もう、そんなに長くもたないの?」
「そんなことはないさ。」
優しい嘘は、けれど、悲しさを秘めた瞳のせいですぐにばれてしまう。
俯く蒼の手を、碧が強く握った。
「俺は、何としてでもお前の病気を治す。だから蒼、お前も俺を信じてくれ。」
こんな狂った血の流れる自分の生を、願ってくれる人がいる。
守ろうとしてくれる人がいる。
それだけで生きる意味を知らされる。
「うん…。」
信じてる、碧のことを、心から。
次の瞬間、ふわりと体が浮き上がるのを蒼は感じ、慌てた。
「ちょ、何してるんだよ。」
「ん、お姫さま抱っこ。」
「だ、大丈夫だから、歩けるから!」
しかし碧は全く聞く耳を持たず、そのまま家に向かって歩き出す。
「恥ずかしいから、誰かに見られたらっ。」
「騒ぐから見られるんだよ、こんな時間に外をうろうろしてるヤツのが少ない。」
確かに発作と媚薬にやられた躰で歩くのは、かなりつらい。
それでもこの姿勢はあまりにも情けない。
蒼が焦ってどれだけ抗議をしても、碧は全く取り合わなかった。
仕方なく諦めて、ふと思い出したことを口にする。
「そういえば、碧と硝って初対面じゃなかったんだな。
…この間、俺に内緒で会ってた人物って、硝だったのか。」
「ああ、ごめんな、黙ってて。お前に余計な心配をかけたくなくて。」
首を横に振る。責める理由はなかった。
そしてもうひとつ、蒼は碧にどうしても聴きたいことがあった。
それは、珪太のことだった。
だが、それを蒼が口にする前に、スマホが振動した。
電話の主は、珪太だった―――。
耳に当てたスマホから聞こえてきた、いつもと変わらない明るい声。
胸の奥の凍えた気持ちを溶かしていく言葉。
明日会って、ゆっくり話すことを約束して、電話は切れた。
スマホをしまうと、碧の優しい眼差しが注がれていることに気付いた。
やり直しの機会を与えてくれた碧。ああ、また甘えてしまった。
「俺は何もしてない。珪太が自分で出した結論だ。」
そう言って微笑む碧に、蒼はありがとう、と聞こえないくらい小さな声で礼を言い、
その首に素直に腕を回した。
その夜、蒼は夢を見た。それはとても遠い日の想い出。
「もう、お別れだね。」
「うん。」
「外に行っても、僕のこと、忘れないでね。」
「…外へは、お前が行くんだ。」
「どうして?だって、僕は…。」
「お前が行かなきゃ、怖いことが起こる。…お前が壊れてしまうんだ。」
「……。」
「いいから、さあ、パパとママのところに行くんだ。早く!」
「…パパ?ママ…?」
子どもの一人はたどたどしい足取りで歩き始めた。光の差す方へ。温かい方へ。
そして、初めて父と母の温もりに触れた。
「さよなら。」
子どもは、もう見えなくなったもう一人の子どもを振り返った。
そして、二人の子どもたちは、二人だけの秘密の記憶を、心の奥底に封じ込めた。
驚きとともに、蒼は目を覚ました。やけにはっきりとした夢だった。
酷く寝汗をかいていて、胸がまだ少し痛む。
深いため息を吐き、蒼はベッドから出た。
夢の最後、さよならの後に続いたのは、忘れられた言葉、「お兄ちゃん」。
昨夜の電話での約束通り、蒼と珪太は二人が最後に別れた公園で会った。
蒼の顔を見るなり、珪太は深々と頭を下げた。
「ごめん、蒼!お前の気持ちを何も知らずに、酷いことを言って。」
珪太が謝ることなど、なにひとつないのに。
騙していたのは、こちらの方だから。
何処まで珪太はお人よしなのだろうか。
「謝ることなんてないよ、俺の方こそ、ごめんなさい。
本当のことを言わないで、嘘を吐き続けていて。」
すると珪太が少し照れながら手を差し出してきた。
「仲直りの握手。」
「ふふっ、子どもみたい。」
「なんとでも言え。」
少しからかいながら、珪太の手を握る。温かで力強い手だった。
「これからもよろしくな、蒼。」
「こっちこそ。」
刹那。
「危ない!」
轟く銃声。
間一髪のところで珪太を突き飛ばし、蒼自身も弾丸を逃れる。
すぐさま身を起こしたが、既に車は走り去った後で、他には殺気も感じられなかった。
見ると、二人が腰かけていたベンチは、蜂の巣にされていた。
「大丈夫?」
呆然と地面に座り込んでいる珪太に手を貸し、立ち上がらせる。
今の銃撃は、完全に珪太が狙われていた。
なるほど碧が言う通り、自分は珪太の傍にいて、彼を守る必要があるのだ。
「お前、いつもこういう生活送ってるんだよな、怖くないのか?」
珪太の問いに、蒼は少し笑った。
「慣れた。」
「そっか、強いな、お前は。」
ぎこちなく、それでも珪太も笑った。
また車が公園の横を通った。が、今度は公園の入り口に横付けされた。
パトカーだった。
「なんだ?今の銃声で来たのか?」
「いや…、違うみたいだ。」
警官は真っ直ぐに蒼の元へとやってきた。そして、言った。
「蒼だな。カジノのマネージャー殺しの重要参考人として、署まで同行願おう。」
どうやら、ついに「S」が本気で動き出したようだ。
いま蒼を囲んでいる警察官は、殺しがあった日にいた警察官ではなかった。
おそらく、より深く「S」に関連している警察官なのだろう。
「ちょっと待ってください。」
警察官と蒼の間に、珪太が割って入った。
「コイツにはアリバイがあるって説明したはずです。
それに貴方たちは今まで見なかった顔ですが、急に担当替えですか?」
「黙れ!ごちゃごちゃ抜かすと、お前も公務執行妨害で逮捕するぞ!」
キッと珪太の表情がきつくなった。
「じゃあ、俺も連れて行けよ。
もしコイツのアリバイが嘘なら、俺も偽証罪で捕まるんだからな。」
「いいだろう、そんなにブタ箱に入りたいなら、連れて行ってやる。」
「珪太…。」
こんな連中に珪太まで付き合う必要はない。
だが、ここで二人が離れるのもまた、得策ではない。
珪太はニッと笑って見せた。
「安心しろ、こっちの分野は俺の専門だ。」
「おいっ、連れていけ!」
警官たちに挟まれ、二人はパトカーに乗せられた。
ついた場所は、S署の地下駐車場だった。
そこで二人は車から降ろされ、フロアの奥に連れて行かれた。
ここには重要資料室と射撃訓練場しかないはずだった。
押し込められた訓練場の隣の部屋は、暗くじめじめとしていた。
「お前ら、やっぱり本当の警察官じゃないだろ。」
まだ拘束している警察官の腕を振りほどいて、珪太がすごんだ。
重要参考人を取り調べる場所に、ここはとても相応しいとは言えなかった。
だが、警察官は薄く笑った。
「いいや、本物さ。ただし、今はある方の命令で動いているだけで。」
「そんなの、警察官じゃねえよ!
万人の平和を平等に守る、それが警察官の職務だろうが!」
怒鳴る珪太の脳裏には、彼の父親の姿が、警官の模範のような姿があったのだろう。
震える珪太の拳を包み込み、蒼は首を横に振る。
ここで感情的になっては、相手の思うつぼだ。
その時、背後から聞き覚えのある声がした。
「ははは、どちらにしろ、今更手遅れだ。
お前たち二人は、此処で死ぬんだからな。」
振り向く蒼。
「あんたは…。」
そこに立っていたのは、官房長官だった。
「そうか。この件は全部あんたが仕組んだのか。」
残忍で狡猾なこの男らしいやり方だ。しかし、官房長官はまだ余裕の笑みを浮かべていた。
「さあ、何の事だか。すべてお前がやったんだろう、蒼容疑者。」
「なんだと、てめえ!」
「ダメだ、珪太!」
蒼の制止を振り切って、官房長官に向かって駆け出した珪太を、警官の一人が羽交い絞めにした。
すかさず蒼は珪太を助けようと、父の形見の絃を引き出そうとした。
だが。
「おいおい、蒼。お前の相手は別にいるんだぞ。」
「!」
感じたことのある気配。殺気。すぐ背後から感じる…。
「くっ…!」
不意に締め上げられる首、足が宙に浮き、息が止まる。
「バーカ、隙だらけなんだよ!」
この声、この力…。
首を締め上げ笑っていたのは、自分と同じ顔のあの少年―――。
「玲!?」
羽交い絞めにされたままで、珪太が叫んだ。
玲――、そうか、この少年は「玲」というのか。
そしてやはり、珪太は少年…「玲」に会っていたのか。
「やめるんだ、玲!」
「あ…、珪太…。」
ほんの一瞬、玲の力が弱まったのを、蒼は見逃さなかった。
すかさずバングルから絃を引き出し、玲の腕を切りつけた。
「ッ!」
赤い血が散り、玲は手を離した。反射的に飛びのき、蒼は玲との間合いを取る。
玲の憎しみに燃える双眸が、蒼と珪太を見つめていた。
「やっぱり…、珪太は蒼の味方なんだ!俺のことなんて、俺のことなんて…!!」
思いもよらないほど強い、玲の珪太に対する感情に、蒼は息を呑んだ。
玲は、珪太のことをとても大切に想っているのがひしひしと伝わってくる。
彼は、単なる「S」の殺人ロボットではないのだろうか。
しかし、それ以上考えている時間はなかった。
まずはなんとしても珪太を助けなければ。
しかし、玲は少しの隙も与えてはくれなかった。
接近戦に持ち込まれたら、こちらに勝ち目はない。
蒼の絃は執拗に玲を追う。
そしてついに、その手首を捕えた。
「お前の負けだ。」
指先に少し力を入れるだけで、玲の手は落ちる。
蒼の指が、糸を引きかけた、その時。
「やめろ、蒼!」
切迫した珪太の声が響いて。
そして。
「玲は…、玲はお前の双子の兄貴なんだ!」
嘘だ。そんなこと、嘘に決まっている。玲が自分の双子の兄…?
今朝見た夢が、鮮明に蘇ってくる。
「お兄…ちゃん…。」
唇から無意識に零れ落ちた言葉、胸に走る懐かしいような痛み。
絃がするりと、玲の手首から外された。
「お願いだっ!兄弟で殺し合いなんてしないでくれ!」
珪太の叫び声に呆然と立ち尽くす蒼に、ゆっくりと玲が近づいてきた。
狂気じみた笑みを浮かべ、静かに。
「俺はずっと覚えてたのに、お前はずっと忘れてたんだ。
俺の存在なんて無視して、父さんと母さんと一緒に幸せな生活を送って…。
俺だけ独りぼっちで。」
それが事実だと言うならば。
みぞおちを玲に殴られ、蒼は床に崩れた。
憎しみを込め、玲は蒼を力の限り暴行する。
だが、蒼は抵抗しなかった。いや、できなかった。
「殺してやる!お前さえ死ねば、俺は自由になれるんだ!」
「玲っ、やめるんだ!やめてくれ!…くそっ!!」
遂に珪太が警官を振り切り、玲と蒼の間に無理やり割って入った。
「やめるんだ、玲ッ、こんなこと間違ってる!
蒼は…、お前のたった一人の弟なんだぞ?」
「でも、俺のことを忘れてたコイツなんて、もう弟でもなんでもない!」
玲の悲痛な叫びは、蒼の胸に深々と刺さった。
珪太が間に入っているからか、それでも玲は蒼に決定打を加えようとはしなかった。
痺れをきらして、官房長官が怒鳴った。
「ええい!何でもいいから早く始末しろ、玲!」
刹那、玲の気配が変わった。ハッとして蒼は立ち上がり、珪太の前に進み出た。
「蒼っ、バカ、お前っ!」
「勘違いするな、珪太も玲のターゲットにされてるんだ!」
大きく目を見開き、珪太は玲を呆然と見つめた。玲は無表情で頷く。
「そ、二人とも殺せっていうのが命令だからさ。」
「そんなこと、絶対にさせない…。珪太は俺が守る。」
珪太は蒼の背中と玲の顔を見比べていたが、暫くして口を開いた。
「…玲。蒼を殺す前に、俺を殺してくれ。
俺は兄弟が殺し合う姿を見るくらいなら、死んだ方がマシなんだ。」
びくり、と玲が目に見えて震えた。苦しげに歪む唇。
珪太の言葉が続く。
「俺は、お前のこと、友達だと思ってるって言っただろ?
友達同士が、しかも兄弟で殺し合うなんて、俺には耐えられねえんだよ!」
呆然と珪太を見つめていた玲の瞳が、頼りなく揺れた。
そして、その頬を伝う透明な液体は…涙。
双子である蒼が持っていない、涙。
それを玲はその双眸から惜しげもなく零している。
暫く、沈黙が続いた。
乱暴に涙をぬぐった玲が、不意に珪太と蒼に背を向けた。
「やーめた、もう帰る。」
「なんだと!お、おい、玲っ!」
官房長官が大声を上げたが、冷たい、少し苛立った視線を玲は向けるばかりだった。
「疲れた。俺、帰るから、後は勝手にやれば。」
そして足早に部屋から出て行ってしまった。
残された官房長官はじりじりと後ずさり。
「あとはお前らに任せたぞ!」
無責任に警官たちに全てを押しつけて、逃げようとした。
が、出口で立ち止まり、思い出したようにさも可笑しそうに笑った。
「珪太…?貝沼……。…そうか、お前があのバカ刑事の息子か。どうりで…。」
珪太の顔色が変わった。
「あいつはな、私たちの邪魔をしたからな…、事故に見せかけて殺してやったわ!」
「殺し…た…?」
無意味に珪太の唇が反芻する言葉。
ついに珪太は知ってしまった。彼と「S」を繋ぐ接点。父親の死の真相。
「許せねえ…ッ!」
珪太の声は酷く震えていた。駆け出そうとした彼を、警官たちが阻んだ。
「せいぜい吠えてるんだな。ま、次に会うこともないだろうがな。」
大声で笑うと、官房長官は部屋から出て行った。
残された警官たちに向けて、蒼と珪太の鋭い眼差しが注がれた。
その場にいた警官たちが全て気を失うまで、5分と要しなかった。
珪太は倒れた警官たちを尻目に、床を何度も叩いていた。
「畜生、畜生…ッ!」
悔しいのだろう、許せないのだろう、憎いのだろう、「S」が。
そっと蒼はその背中をさすり、そして腕をやんわりと包んで立ち上がらせた。
「帰ろう、珪太。」
「…ああ。かっこ悪いところ見せちまってごめんな。」
首を横に振り、二人でそっとS署を後にした。
追ってくる者は誰もいなかった。
珪太の様子が心配だったので、蒼は彼を家まで送ることにした。
途中、落ち着きを取り戻しつつあった珪太が蒼に尋ねてきた。
「お前、本当に玲のこと、知らなかったのか。」
頷く。あの少年が、玲が、自分の双子の兄だなんて。
それも「S」という檻にずっと閉じ込められていただなんて。
だが、自分に向けられたあの深い憎しみは、それが真実だと物語っていた。
彼に会うたびに胸が痛んだのも、一つだった体が互いに呼び合っていたのなら…、なんて、
似合もしない考えさえ頭に浮かんでくる。
「俺に兄がいたなんて、知らなかった。」
知らなかった?本当に?忘れていたのではなく?
答えの出ないまま、珪太の家に着いた。
今時珍しい古き良き下町の安アパートの2階角部屋、そこが珪太の家だった。
ドアを開けて、蒼は愕然とする。積み上げられた洗濯物の山や、食器の山に。
男の一人暮らしなんて、こんなものだろうか。
適当に座ってくれ、と言われても座る場所もない。
仕方なく、洗濯済みであると思われるシャツを何枚か畳んで、自分のスペースを確保した。
ふと顔を上げると、他のものはすべて埃を被っているのに、一つだけ綺麗な写真立てがあった。
その中で一番大きい子は、どう見ても珪太だった。
他には大人の男性が一人、女性が一人、そしてたくさんの子どもたち。
恐らく、珪太の両親と兄弟だろう。
「それ、俺の家族なんだ。親父、お袋、それに弟たちと妹たち。」
背後から聞こえた声に思わず振り向くと、コーヒーカップを盆に載せた珪太が立っていた。
珪太は自分は六人きょうだいの一番上だと説明した。
そして、父親が殺されてからは、自分が働かなければならなくなったこと。
中学校もろくに行くことが出来ずバイトをして、最終的にあのカジノに行きついたこと。
それでも、子どもの頃からの夢だった父親のような刑事になることを諦められず、
一家惨殺事件について調べていたことを語った。
「俺…、初めて人を殺したい、って思った。」
思いつめた声で、珪太は呻いた。
「「S」なんてみんな死ねばいいんだ!」
蒼はそっと珪太を抱きしめ、首を振った。
「珪太はこっち側の世界にきたら、ダメだ。お父さんが悲しむよ。」
「でも!」
「…珪太のお父さんの仇は、俺がとるから。」
「……俺、最低だ。お前のこと、人殺しって批難したのに。
それなのに、自分だって今、人を殺したいって思ってる。
間違ってるって、許されないことだって、理屈じゃ分かってるのに、
止められないんだ、この憎しみを。
…なあ、蒼。でも、お前はそれでいいのか?俺の代わりに復讐を負って。
俺の為に、その手を血に染めて。本当はお前だって、殺すのは辛いんだろ?」
殺すのが、辛い。確かに今はそうだ。
だが、もう一人の自分が嘲笑する。嘘を吐くな、と。殺しは快感じゃないか、と。
「俺はね…、特別なんだ。辛くない訳じゃない、けど。
俺は…、俺は「S」に遺伝子を組み替えられた人間…、いや、道具なんだ。
人を殺すために作られた、道具なんだ。」
珪太が息を呑むのが伝わってくる。
「…こんな俺でも、珪太はまだ友達だっていってくれる?」
「当然だろ!」
殺人のための道具でも、友達だと認めてくれる。
そんな珪太の優しさが素直に嬉しくて、蒼は自然と笑顔を浮かべていた。
いつか殺人鬼に堕ちてしまうその日まではせめて、友達でいたい、と。
翌日、碧は有休をとって、退院する紅に付き添っていた。
当初はどうしても休みが取れない、と言っていた朱の代役だったのだが、
どういうわけか、当日、朱はちゃっかり病院に顔を出した。
荷物を整えながら、三人は玲について情報交換をする。
と言っても、碧も紅も大した情報を得ることはできず、
唯一、二人ともだらしないなあ、と胸を張ってみせたのは朱だった。
さすが、情報収集能力に掛けては右に出るものがいないだけはある。
「玲は今、総理公邸に住んでいるんだ。その前は香港にいたらしいよ。
というのか、日本で生まれて数年で香港に移ったらしいんだ。
性格は、喜怒哀楽の激しい激情家。蒼とはまるで正反対の性格、だね。」
一体どこからこれだけの情報を仕入れてくるのだろうか。
「S」の中に内通者がいるという噂もあるが、本人は笑ってばかりで真実を語らない。
「それと、これがある意味一番重要な情報なんだけど、
玲は毎日、夕暮れ時にある場所に現れるらしいんだ。」
「ある場所?」
「その場所っていうのがね―――。」
夕暮れ迫る頃、碧は朱から聞いた場所――珀たちが眠る墓地を訪れた。
共同墓地でも外れの方、木々が生い茂る小高い丘の上にぽつりと佇む墓石の前に、
寂しげに立っている人影がひとつ――玲だった。
少し離れたこの位置からでも、零れる嗚咽が耳に届いた。
「お父さん…っ、お母さんっ、どうして…?」
玲は墓石に縋るように泣き崩れた。
双子だというのに、蒼が硝によって奪われた涙を、玲は失っていなかった。
これは何を意味するのだろう。
気配を殺し、一歩一歩、痛いくらい哀しく泣く玲に近づく。
「玲。」
逃げられないくらいの距離まで近づいてから、碧はそっとその背中に声をかけた。
びくりと肩を震わせ、すぐさま涙も拭わずに玲は振り向き、殺気だった目を碧に向けた。
だが、この状況では自分にイニシアティブがないことは分かっているようで、
抵抗する様子はなかった。
「お前は…、俺を殺しに来たんだろう。」
玲の鋭い声に、碧はゆっくりと首を横に振った。
「違う。玲と話をしてみたかっただけなんだ。」
「ウソだ!」
「うーん、これでも嘘だと思えるか?」
碧は玲に視線を合わせるために、自ら膝を折った。そして玲の眼差しを正面から受け止めた。
自らイニシアティブを放棄する行動に、真っ直ぐな嘘のない瞳に、玲は戸惑ったようだった。
「お父さんたちのお墓参りをしていたのか。
それも、毎日お参りしているそうじゃないか、えらいな。」
「そんな…、そんなんじゃない!」
強く否定する玲。瞳に揺れる、不安と寂しさ。それはまるで捨て子のようだった。
「俺は、コイツらが憎いんだ!俺のことなんて全く知らないで、捨てて行ったコイツらが!」
ああ、そうか、この子は。
そっと、碧は有無を言わさず玲を両腕で抱いた。
余りに不意だったからだろうか、抗うことなく小さな体は碧の腕の中に納まった。
離せ、と口にはするものの、逃げようとする気配は感じられない。
細い体は可哀想なほど冷え切っていた。
「寂しかったんだな、ごめんな、玲。」
玲の体が微かに震えた。自分を見つめてくる、余りにも無防備な瞳。
「どうして、あんたが謝る…。」
「玲は蒼のお兄ちゃんだろ?俺も蒼の義理のお兄ちゃんだ。
だからつまり、玲は俺の義理の弟ってことだ。
大切な弟に寂しい思いを、辛い思いをさせてしまったんだから、謝るのは当然だ。」
「あんたが、俺の、お兄ちゃん…?」
「そういうことだ。ま、頼りない兄だけどな。」
暫くして、玲の両目にみるみる涙が溜まり、そして溢れ出した。
「ずるい…ッ!ずるいよ、蒼は!
だって、アイツの周りはみんなイイヤツばっかりで。みんなアイツのことが大好きで。
あんただって、蒼が一番大事なんだろ?蒼を助けたいから、俺に近づいたんだろ!?」
その言葉に、はあ、とわざとため息をつくと、碧は玲の頭を小突いた。
「あのなあ、玲。お前も蒼も、俺にとっては大事な弟だ。
どっちが大事とか、そう簡単に比べられるわけないだろう。
俺は、二人ともに幸せになって欲しいんだ。」
ずるい、と玲は呻いた。が、すぐにまたぽつりと呟いた。
「そっか…、だから蒼はあの時アンタのことを助けに来たんだ。
分かった、気がする。」
それでもやっぱり蒼はずるい、不幸なんて知らないでぬくぬくと守られて。
そう言い募る玲に、碧は少し迷ってから、過去の蒼に起きたことを教えた。
誰も守ってくれる人がいなくて、いやむしろ傷つけられてばかりの時代があったことを。
ただ、義父にレイプされたことは、さすがに言えなかった。
玲は驚いたようだった。想像もしていなかったようだった。
「蒼が…そんな酷い目に…。…ッ!?」
突然、玲が額に手を当てて、苦しげな声を上げた。
「大丈夫か!」
慌てて尋ねると、大丈夫、と答えてから、玲はぼんやりとした口調で続けた。
「決め…たんだ…。アイツを守るって…。約束、したんだ…。」
「…玲?」
ぱちぱちと、瞬きをする玲。瞳の焦点が合った彼は、今口にしたことを覚えていなかった。
約束、とは。一体。
その時、背後から穏やかな男性の声がした。
「玲。」
振り向いた玲が、嬉しそうに笑った。
「あ、燐斗!」
立っていたのは柔和な笑みを浮かべた初老の男性だった。
「じゃあ、俺、帰るね!」
碧の元を離れ、玲は燐斗に駆け寄った。燐斗が碧に向けて深くお辞儀をする。
そのまま二人は、夕闇の中へと消えて行った。
「約束、か…。」
二人を見送った碧は、珀の墓を振り返り苦笑を浮かべた。
今の状況を、珀たちはどんな想いで見守っているのだろうか。
と、ふと、碧の記憶にあることが蘇った。
それは、珀たちが殺された前日の記憶。
あの日、珀は言っていた。明日は俺たち一家の記念日になるんだ。
大切な宝物が増える、大切な記念日に、と。
そのときは、家族でハイキングに行くことで大切な想い出ができるという意味だろうと、
勝手に解釈をしていた。
だが、もしかしたら…。
何故、あの日、珀はあの場所に行ったのか。そして何故、家族全員で向かったのか。
ハイキングに向く場所ならば、もっと子供向けのコースもたくさんあるはずなのに。
まさか。
確証があるわけではない。けれど、碧は何故か確信していた。
あの日の珀の行動が、玲と無関係ではなかった、と。
首相公邸の地下研究室の一室で、硝はカルテに目を通していた。
研究員の一人が別のカルテを手に、駆け込んでいた。曰く、実験体が三体死亡したと。
しかし、硝は顔色一つ変えることなく、死体の処分だけを命じ、またもとのカルテに目を戻した。
硝にとって、興味がある実験体は一つしかなかった。
自分が作った実験体の中で、最高傑作の実験体――蒼。
あの日のことを思い出す。自分の運命が変わった、あの日を。
あの日、珀と彼の恋人の会話を偶然盗み聞いた。二人の子どもを実験体に混ぜて作るという。
チャンスだと思った。「「S」で唯一無二の逸材」である珀の鼻を明かしてやるチャンスだと。
あの男がいた所為で、自分はいつもナンバーツーに甘んじていた。
やっと見返してやれる、そう思った。
だから、こっそりあの二人の宝を奪い、以前から構想を練っていた実験を施した。
事実を知った時の珀の表情と言ったらなかった。初めて、あの男に勝ったと思った。
実験は予想以上の性交だった。あのままいけば、一対の殺人鬼が生まれるはずだった。
それなのに。
二つも生じた、計算外の出来事。結局、自分の最も望んだものは手元に残らなかった。
「私の欲しいものは…、お前だけだよ。」
古ぼけたカルテに愛しげに口づけ、笑う。
「さあ、いつまで逃げ続けるつもりだ?
早くゲームを終わらせないと、犠牲者は増える一方だ。」
狂気に支配された笑いが、薄暗い研究室に不気味に響いた。
夢を、見た。硝の腕の中、何もかも暴かれ、奪われる夢。
何度助けを呼んでも誰にも届くことはなく、ただ狂気と快楽に堕ちていく夢。
最後に零れることのない涙を零しながら、蒼は彼を呼んだ。
「碧…ッ!」
「蒼っ、大丈夫か!」
誰かが耳元で自分の名を呼んでいる。
ゆっくりと目を開けると、そこには心配そうに顔を覗き込んでくる紅がいた。
手を借りて上体を起こし、周囲を見回して、あれが夢だったことを確認する。
やっと意識がはっきりしてきた。
そうだ、昨夜は帰宅後、自分と珪の身に起きた出来事を碧たちに話し、そのまますぐ眠ったのだ。
そして、あのおぞましい夢を見たのだ。
「起こしてくれてありがとう、紅。」
紅の話だと、たまたま蒼の部屋の前を通った時に、酷く魘されている声が聞こえたのだそうだ。
少し躊躇うようなしぐさを見せてから、紅は蒼の肩を抱いた。
紅の腕の温かさは、先の夢の異様な熱を優しく冷ましてくれた。
体から力を抜き身を預けると、僅かな沈黙の後、紅が口を開いた。
「蒼。碧の代わりでもいい、私を傍に居させてくれないか。
私にもっと、本当のお前を見せてくれないか。」
あまりに突然の申し出に、驚いて紅を見つめた。
紅を碧の代わりだと思ったことなど、一度たりともないというのに。
「俺は紅のこと、そんなふうに思っていないよ。紅は紅。碧は碧、だろ?
俺にとっては二人ともどちらも大切な仲間だよ。」
紅は一瞬、複雑な表情をしたが、すぐに微かな笑みを浮かべた。
「そうか。ありがとう。」
そのまま紅は再び蒼が眠りにつくまで、傍に寄り添ってくれた。
まるで悪夢から守ってくれるように。
翌日、蒼は「組織」のビルへと向かっていた。
瑛李から仕事の依頼があるから独りで来るようにと、朝起きたらメールが入っていた。
碧経由ではなく、瑛李から直接依頼が来るのは初めてだった。
碧には内緒で、「組織」のビルに足を踏み入れる。
伝えれば、一緒に来るというのは分かりきっていた。
長いエレベーターの中でふと、昨夜の碧の言葉を思い出す。
何か玲と約束をした覚えはないか、そう碧は問うた。
そんな覚えは全くなかったけれど、何故か胸の奥に懐かしさと寂しさが過った。
理由は分からない、それでもそれはとても大切な言葉に感じられた――「約束」。
やがて瑛李の部屋に着くと、彼は書類から顔を上げ、癖のある笑みを浮かべた。
しかし、その瞳の奥は全く笑っていない。
「ご用件をお伺いします。」
深々と礼をしてから問うと、突然、瑛李は思ってもみない名前を口に上らせた。
「君は貝沼珪太と親しいようだね。
まず一つ目の依頼は、彼を「組織」の構成員になるよう、説得して欲しいんだ。」
珪太を、「組織」に?
あの太陽のような珪太を、闇の住人に?
「その依頼は、どなたからのご依頼ですか?」
「私自身だよ。」
瑛李の意図がつかめない。何故、彼が珪太を欲するのか。
蒼が問う前に瑛李は事情を話し始めた。
「珪太の父親が刑事だったことは知っているね。
彼は刑事の中でも特殊で「S」と決して係わりを持とうとしなかった。
むしろ、我々「組織」に似たような活動をしていてね…、
極秘で「S」関連の事件の捜査をいくつかしていたんだよ。
それに、彼は狙撃の腕も超一流だった。
だから我々は是非とも彼に、「組織」に入るよう依頼したんだが…。」
そこで一呼吸置いて、瑛李は吐息を吐いた。
「彼はそれを頑なに拒んでね。
そうしているうちに、「S」に殺されてしまったんだ。」
何処かの誰かさんたちに係わったばっかりにね、という言葉は、意図的に無視した。
しかし、珪太の父親が「組織」に勧誘されていたとは知らなかった。
珪太はその息子だから、素質を買われた、ということか。
でも、たとえそうだとしても、あの笑顔をこれ以上血で汚したくなかった。
「…お断りしたら?」
「君にね、選択権なんてないんだよ。」
瑛李が指を鳴らすと、ドアの前にいた大柄な男が蒼の背後に歩み寄り、
こめかみにピストルをぴたりと当てた。
この男を殺すことなど造作ない、だがそれはイコール「組織」を敵に回すことになる。
できなかった。
全て理解している瑛李は薄らと笑みを浮かべたまま、続けた。
「では、次の依頼だ。」
黒服はピストルをしまい、元いた場所へと戻っていく。
「君の片割れを、殺して欲しいんだ。
つまり…、玲を殺す、それが君への二つ目の依頼だ。」
玲を、殺す――。
「全く、驚いたよ。
この間の会議の前に私を襲った人物が、君の双子の兄だったなんて。
道理で気配がそっくりだったはずだ。
君たちのことは、いろいろ調べさせてもらったよ。
君たちが意図的に作られた、ということもね。」
「意図的に、作られた…?」
「そう。どうやら君たちは対照実験の為に、わざと双子として作られたようだ。
つまり、君と玲は、完全な対、ということだ。」
意図的に作られた、一対の双子。その片割れを、もう一方の片割れが殺す。
玲を、殺す。兄を、殺す…。
「この暗殺には、失敗した時の独自のペナルティを付けさせてもらう。
だって、君、さすがポーカーフェイスだけど、内心納得してないだろう?」
どちらにしろ勝ち目のない賭け。
ディーラーの自分がそんな勝負を受けることになるなんて、全く滑稽な話だ。
「じゃあ、ペナルティーの内容。
君がもし、任務に失敗したら、碧君に「組織」の幹部…、
私の右腕になってもらう。」
碧が、「組織」の幹部に。瑛李の、右腕に。
気づかないうちに握った拳が震えていた。
碧を失ってしまう。それは蒼にとって何よりも残酷なペナルティー。
「ずっと彼に打診してきたんだが、どうも君のことが気になるようでね。
…碧君はね、本当は権力を渇望しているんだよ。
「S」をその手で潰せる、権力をね。
だが、君の存在が足かせになって、思いきれないんだよ。」
もしも、それが本当ならば。
自分の所為で、碧が己の願いを果たせないのならば。
「でしたら、ペナルティーなど関係なく、碧にお伝えください。
…私のことなど気にせず、幹部に、瑛李様の右腕になるように、と。」
だが、瑛李は何処までも残酷だった。
「君が、君の口で言わなければ意味がない。
それも『もう自分には碧など必要ない』とね。
そうでなければ、彼は到底納得してくれないから。」
自分が、碧を拒む?こんなにも碧を必要としているのに?
「安心してくれ、君が失敗することなんてないだろう?」
さも楽しげに笑う瑛李に一礼をして、蒼は部屋を後にする。
その背中に胸を抉るような言葉が突き刺さった。
「しかし、君も信用がないんだな。
碧君から、幹部の件は聴いていなかったんだ。
相談もなかったんだね。
パートナーなのに信頼されてないんだ…、同情するよ、君に。」
組織のビルから出た後も、蒼の気持ちは晴れなかった。
「蒼!」
俯き加減で往来を歩いていると、不意に名を呼ばれ、顔を上げた。
そこにはいつになく厳しい顔をした碧が立っていた。
「ちょっと来い、話がある。」
何を言わんとしているかは、分かっている。
碧に無断で「組織」にやってきたことを怒っているのだろう。
素直に謝るべきだ、分かっている。
だが、瑛李に言われた言葉が耳について。
押し問答の末、半ば無理矢理碧に腕を掴まれ、ビル街の影の児童公園に連れてこられた。
「落ち着け、蒼。」
ベンチに座らされた蒼は、無言でうつむいた。
「お前、どうして俺に告げずに「組織」に行ったんだ。
…まあ、済んでしまったことは仕方ない。
いいか、これからは今までどおり、「組織」に行くときには俺に一言…。」
「いつまでも子ども扱いするな!
それに…、自分は大事なことを俺にだんまりで、俺にだけ話せって言うのかよ!」
驚いたように凍りつく碧。震える唇で蒼は続けた。
「「組織」の幹部の件…、なんで黙ってたんだよ…。
そんなに俺のこと、信頼してないのか。俺なんかパートナーじゃないのか。
「S」の血が通ってる俺なんて、所詮…ッ!」
責めるように口走ってしまった言葉。いつもなら、こんなバカなことを言ったりしないのに。
こんなことを言っても、碧を困らせてしまうだけなのに。
それでも、瑛李の言葉がどうしても胸に引っかかって。
「蒼。」
碧の声は真剣だった。けれど、言い訳だったら聞きたくない。
急いでこの場を去ろうと立ち上がろうとする。が、碧の腕に阻まれる。
次の瞬間。
不意に、碧が体の自由を奪うほど強く、蒼を抱きしめた。
抗えないほどに、強く強く。そして、言った。
「見たくなかったんだ、今みたいなお前の顔を。そんな辛そうな顔を。
だから、言えなかった。」
蒼は抗うのをやめ、虚を突かれたような表情で碧を見た。
「お前の、そういう泣きそうな顔、見たくなかった。
涙を流せない、泣けないお前がどれほどつらいかって考えたら、さ。
人は泣いてしまえば、辛い気持ちを流してしまうことが出来る。
そうやって、心の傷を癒すことができる。
でも、お前は泣けないから、辛い気持ちを胸に積もらせてしまう…。
これ以上、お前に辛い思いをさせたくなかった。
独りぼっちになる恐怖を、味わわせたくなかった。
…でも、結局、こんな顔をさせてしまったな。すまない。」
ふっ、と蒼の体から力が抜けた。
そうだ、初めから分かっていたじゃないか。碧はこういう優しい人だと。
自分のことを思って、敢て言わなかったのだと。
碧はいつだって、自分のことを考えてくれるのだから。
自分を傷つける者たちから、孤独から、守ってくれるのだから。
分かっていたのに、不安だった。言葉で、碧の口から聞くまでは。
春の優しい風が、二人を包むように吹いた。
蒼の胸の奥から、何か苦しいまでに熱い感情が込み上げてくる、これは…。
「蒼、泣いてるな。」
碧が優しく笑い、蒼の見えない涙が浮かぶ目元をそっと拭った。
「安心しろ。ずっとそばにいるから。お前を置いて行ったりしないから。
いや、むしろ、そばにいさせてくれ。」
小さく頷いた蒼の頬に、不器用な笑みが浮かんでいた。
ああ、もう気づいてしまった。
碧に抱いている、この感情の名前。
でも、この強い感情の名前は、今はまだ胸の中にしまっておこう―――
さっきまでの怒りは嘘のように影を顰め、冷静な自分が戻ってくる。
と同時に、蒼の胸に悲しい現実が去来した。
このままでは、ダメなこと。
自分が碧に甘え続けたら、碧は彼自身の幸せを求めることができないこと。
それに、自分はもう長くは…。
「その言葉だけで十分だから、幸せだから。
だから、碧、幹部になっていいんだよ?
俺のことは考えなくていいから、碧には幸せになって欲しいから。
俺、碧の重荷にはなりたくないから…。」
刹那、碧の表情に強い感情が過った。怖いほどの。
すぐに蒼を抱きしめる碧の腕の力がますます強くなった。
「二度とそんなことを言うな。重荷なんて。
分かってくれ、蒼。俺にはお前が必要なんだ。
パートナーってだけじゃない。それ以上の存在なんだよ。
俺にとってお前は、一番大切な存在なんだ。」
神様、もしも碧が本当にこんな自分を必要としてくれるなら、
どうか彼と等しい生の時間をお与えください。
ずっと、彼の隣にいられるように。
「ごめん、碧。ごめんね。…もう、言わないから。」
「約束、できるか?」
蒼の体を抱くのをやめ、碧は今度はじっと蒼の顔を覗き込んできた。
ただ、頷く。
やっと碧はいつものように笑ってくれた。
「じゃ、指きりだな!」
「遠慮する…って、碧っ。」
有無を言わさず、指きりげんまん。
繋がった小指の先から秘めた想いが伝わってしまいそうで少し怖かった。
その後、蒼と碧は昼食を外でとり、店の駐車場を歩いていた。
そこで碧のBMWの前に立っている人物に、蒼も碧も思わず立ち止まる。
玲の保護者である、燐斗だった。
二人の姿を確認すると、燐斗は穏やかな笑みを浮かべ、こちらに歩いてきて言った。
「少し、蒼君に玲のことで話したいことがありまして。
碧さんもご一緒していただいても構わない、少し時間をいただけませんか。」
蒼と碧は顔を見合わせた。
玲のこととなれば、聴いておくべきだろう。
たとえこれが罠だとしても、燐斗は玲について最も詳しい人物だ。
こんな機会が二度訪れるかは分からない。
二人は頷き、燐斗の車に先導され、彼の行きつけという店に場所を移した。
「それで、話と言うのは?」
個室に案内された途端、単刀直入に碧が切り出した。
燐斗は苦笑したものの、すぐに本題に入った。
「実は…、玲を、あの子を「S」から助けて欲しいんです。」
あまりに予想外の申し出に、蒼は驚き思わず声を上げたが、
燐斗は構わず続ける。
「あの子は本当は「S」にいるべき人間ではないんです。」
「それは、どういう意味ですか?」
蒼の問いかけに、今度は燐斗は蒼をまっすぐに見つめて言った。
「あの子は…、いや、あの子こそが、本当は今の蒼君の位置にいるはずだった。」
「それは…。ッ!」
胸が締め付けられる、息が苦しい。
また何か、思い出せそうな気がする。もう少しで、とても大切なことが。
そっと背後から腕を回してくれる碧。
構わずに燐斗は続ける。
「君が幼い頃、君の両親は君を「S」から奪って逃げた。それは知っていると思う。
だけれど、この事件にはひとつ、間違いがあったんだ。」
一呼吸、燐斗は置いた。そして。
「君の両親が「S」から奪おうとしたのは、本当は君ではなく…、玲だったんだ。」
両親が求めたのは、自分ではなく、玲だった。
その事実が、蒼の胸を深く抉る。
嘘…と刻む唇は震え、瞳の焦点が合わなくなる。
崩れ落ちそうな蒼の体を、碧が抱き留めた。燐斗はそれでも次々と真実を明かしていく。
「君の両親はね、自分たちの子どもが双子だという事実を知らなかったんだよ。
そして…、硝は双子のうちの片方、つまり玲を、ある理由でわざと珀たちに会えるようにしていたんだ。
もちろん、偶然を装ってね。
だから、君の両親にとって玲こそが自分たちの息子だったんだよ。
あの日だって、当然、玲を奪うつもりだった…。」
紙の用に白い肌で震える蒼。碧も言葉を失っている。
「だがあの日、いつもの場所にいたのは、蒼、君だった。
何も知らずに珀たちは、君を奪って「S」から逃げ出した。
彼らが愛情を注いでいた玲ではなく、硝の人形だった、君を。」
それなら、自分は、何?ただの、玲の代わりの人形?望まれなかった存在?
「い…やだ…。」
「蒼!しっかりしろ!」
碧の手が、触れている。そんな感覚さえ、消えてしまいそうだ。
「彼らが愛したのは君ではなく、玲。いや、本当の「蒼」だ。
分かっただろう?本当は君が「玲」で、玲が「蒼」だった。
それがあの日の間違いで、逆になってしまった。」
「S」の暗殺者、「玲」。それこそが自分の本来の姿。
信じたくない、信じたくないのに、今は「玲」という呼び名が酷く懐かしくて。
「君の居場所は「S」なんだよ。…戻って来なさい。
君さえ戻ってくれば、君のお兄ちゃんは本来の居場所に、明るい日の光の舌に戻れる。
幸せになることができるんだ。
もちろん、君だって本来の居場所で幸せに…。」
「なれるはずがないだろう。」
冷たく響いたのは、碧の声だった。
「過去がどうあろうと、蒼は蒼だ。蒼はもう、硝の人形じゃない。
あの男の呪縛に囚われる必要などないんだ!」
「ほう…、この子が血を渇望していても?」
「…してないさ。蒼のことは俺が一番知っている。
蒼は、普通の人間だ、お前たちの玩具じゃない!
…それに、それで本当に玲は幸せになれるのか?
アンタはそうやって自分だけ逃げようとしてるんじゃないのか?」
初めて、燐斗の穏やかな表情が崩れた。
「玲が本当に何を願っているのか、アンタは尋ねたことがあるのか?」
「………。
それでも、私は玲の幸せは外にあると信じています。」
「そこは、俺も否定はしない。
でも、そのために蒼を犠牲にするというのなら…、
俺はアンタに与することはできない。」
静かに二人の話を聴いていた蒼が、ふっと顔を上げて燐斗を見た。
自分が血を求める殺人鬼の本能を持っていることは、間違いない。
そして、玲にはその本能がないと言うのであれば。
本当は、殺人鬼になんて堕ちたくない。
「S」に戻れば、しかし、それは避けられない。硝の前では、自分はあまりにも無力だ。
それでも、玲には「S」ではなく、日の下で生きて欲しい。
過ちは、正されなければならない。
刹那、部屋のドアが開いた。
そして、其処に立っていたのは―――。
「硝…。」
蒼の青褪めた唇が、震えた。
「さあ、蒼。これで分かっただろう、君は私の元に帰ってくる運命なんだ。」
冷たい笑みを浮かべ、硝は一歩一歩、蒼へと近づく。
すかさず碧が蒼を隠すようにして、間に立つ。
「貴様になど、蒼は渡さない!」
硝は唇の端を歪めた。
「おやおや…、もしかして媚薬にかこつけて、蒼を自分の物にしてしまったんですか?」
「貴様ッ、下衆な勘繰りは止せ!」
「違う?ならばこの坊やは貴方のモノではない。
本人に選ばせてあげなければならないでしょう、自分の未来を。」
蒼は自分の腕で自分の体を抱きしめ、震えていた。
戻りたくない。戻りたく、ない。
そのとき、脳裏で響いた幼い自分の声――お兄ちゃん。
お兄ちゃん、いいなあ。お父さんやお母さんと会えて。
あのね、僕、このまま此処にいたら、壊れちゃうんだって。
人殺しのロボットになっちゃうんだって、硝様が言ってた。
でも、それが正しいんだって。
「う…ああッ!!」
激しい頭痛とともに思い出す記憶。
そうだ、幼い自分はいつも、硝の腕の中にいた。
そしてあの閉ざされたラボの薄暗い部屋が、世界のすべてだった。
双子の兄である「蒼」だけが、外の世界とを繋いでくれた唯一の存在だった。
そう…自分こそが、「S」に残るべき鬼子…。
「蒼!」
ぐらりと揺れて崩れた蒼の体を、碧が抱き留めた。
「俺は…ここにいてはいけなかったんだ。」
いつか壊れゆく、狂った人形。それこそが自分の本性。
「さあ、分かっただろう、蒼。戻って来なさい。
君さえ戻ってこれば、全ては解決するんだよ。
玲も晴れて、自由の身だ。
…思い出しただろう、私と過ごしたあの甘い日々を。」
差し伸べられた青白い手は、とても懐かしい手。
焦点の定まらない目で、蒼は硝を見た。
そうだ、これが正しいんだ。
このまま、この人に身を任せてしまえば、きっと楽になれる。
抱き留める碧の腕の隙間から、求めるように硝に手を伸ばす。
もう、碧の声は聞こえない。
ただ、硝だけを見つめる。自分の創造主、その人を。
刹那、全てを切り裂くように響いた、声。
「行くな、行かないでくれ!俺にはお前がどうしても必要なんだッ!!」
それは、慟哭のような叫び。強い強い、曇りのない感情の吐露。
碧の叫びは蒼の意識に波紋を広げていく。
優しく、優しく、包み込むように。彼の抱擁のように。
蒼の意識の崩壊が、止まった。冷え切った胸に、温かさが戻ってくる。
碧が必要としてくれる、それだけで十分だった。
それだけで、此処にいる理由が生まれてくる。
それだけで…、血の欲求に屈することなく意識を保てる。
蒼の瞳に理性の色が戻った。
硝に手を掴まれる寸でのところで、その手を引っ込めた。
「俺は、貴方とは行きません。俺は…、貴方の人形だった「玲」じゃない。
「蒼」という一人の人間なんだ。」
碧が安堵の吐息を吐き、微笑んだ。
逆に硝は激しい憎悪をその双眸にたぎらせた。
無言で見つめる視線はそれだけで蒼を射殺してしまいそうだったが、
正面から受け止め、きっぱりと言い切る。
「オレは、絶対に玲を救って見せる。俺も玲も幸せになる方法を見つめてみせる。」
そのまま二人は、硝と燐斗の隙をついて、部屋から駆け出した。
「わざと、逃がしましたね。」
二人きりになった個室の中で、硝が呻くように言い、燐斗を睨んだ。
硝は気づいていた。不意を食らったふりをして、燐斗が退路を開けたことを。
二人をわざと逃がしたことを。
「後できっと後悔しますよ…。」
憎々しげな硝の台詞にも、燐斗は答えず、二人の去った扉を見つめていた。
硝と燐斗から逃げ、車に乗り込んだまではよかった。
だが、走り出して数分で、蒼は発作を起こし、意識を失ってしまった。
とりあえず家に帰りベッドに寝かせ、碧は紺野に無理を言って往診を頼んだ。
点滴を打つと病状は落ち着いたようで、暫くすると蒼は目を覚ました。
病状が安定しているのを確認して、紺野は帰って行った。
部屋には、蒼と碧、二人きり。既に日は落ち、窓の外の景色はコバルトブルーに変わっていた。
碧をじっと見つめて、優しく髪を撫でてくれる手に触れて、蒼は突然小さく呟いた。
「碧…、俺はまだ子どもなんだ。」
ずっと大人ぶってみせてきた。そうすることで、自分を守ろうとしてきた。
大人ぶって心を閉ざしていれば、傷つかなくて済む、そう思っていた。
でも、本当はただ闇の中、出口を探そうともせずただ怯えていた子どもにすぎなかったのだ。
いつでもその闇の中に、碧は救いの手を差し伸べてくれていたのに。
やっとわかった。碧の優しさ、本当の強さ、そして…弱さ。
「子どもだから、やっぱり碧が必要なんだ。」
一瞬驚いた顔をしてから、碧は微笑んだ。
「蒼、お前は絶対に運命を変えられる。だからさ、その手伝いを俺にさせてくれ。
俺を傍に置いてくれ。」
碧の瞳には自信が溢れていた。この強い思いが、蒼の崩れそうな精神の最後の砦だった。
「これからも、一緒に行こうな、蒼。」
碧の手が、蒼のうなじに触れた。そしてそのまま、近づく二つの唇。
蒼は素直に軽く目を閉じた。
闇の中、二つの影が重なる。
唇と唇が、触れ合う…、
とその前に。
「蒼、大丈夫ー!?」
ノックもなくドアを開け放つ朱に、思わず蒼は碧を突き飛ばしていた。
「あっれー、もしかして僕、お邪魔しちゃった?」
床に転がる碧を見てにやにや笑う朱に、碧は覚えておけよ…と小さく呟いた。
夢。
約束、しよう。
約束?
うん。大切な約束なんだ。
なあに?
お前と僕は、もうすぐ離れ離れになっちゃうんだ。
………。
でも、離れちゃっても…。離れて、会えなくても…。
「!」
ハッとして玲は目を覚ました。此処が自室のベッドだと確認し、ホッと息を吐く。
まだ動悸が治まらない。何か、夢を見ていた気がする。とてもとても、自分にとって大切な夢を。
蒼と会ってから、以前は見なかった夢を見るようになった。
ただ、その夢の内容はおぼろげで、起きると忘れてしまうのだけれど。
ベッドから上体を起こす。体中が痛い。
そっとパジャマの裾をまくりあげると、そこには酷い青あざがあった。
そこここにある痣は、硝や官房長官によってつくられたものだった。
二人は何か気に入らないことがあると、玲に当たった。
もう、物心ついて以来、ずっと。
それを見かねた燐斗が玲を連れて香港に渡ったのは数年前。
そして今回、官房長官に呼び戻され、日本へと戻ってきたのだ。
暗殺者として、自分の片割れを殺すために。
「ずるい…。」
自分の片割れ、蒼。
自分のことを友達だと言って笑ってくれた珪太と、弟だと言って撫でてくれた碧。
そのどちらも、蒼のことをとても大切にしている。
自分が持っていないものを、さも当然のように享受している蒼。
でも、それは…。
ふと、意識の中で響く声。記憶が語りかけてくる、温かな声で。
それは、僕自身が…。
ダメだ。この声を聴いては。この声を聴いたら、自分は―――。
「うるさい!俺はあいつが憎いんだ、だから殺すんだ!」
この前は珪太がいた、だから殺せなかっただけなのだ。
もしも今度、蒼と珪太が一緒にいたとしても、必ず蒼を殺す。
憎いのだから、消せばいい。ただそれだけのこと。
再びベッドにもぐりこみ、目を瞑った玲の耳には、しかし、
まだあの声が響いていた。
本当は、それは……。
週の開けた月曜日、珪太は昼過ぎに布団から這い出して、大きく伸びをした。
カジノが休業してから、もうすぐ一週間が経つ。
いい加減に再開してくれないと生活費にも困るが、マネージャー殺しは「S」の犯行だから、
あの事件が迷宮入りとなることは目に見えていた。
そんな状況でなにひとつできない自分に腹が立つ。
こんなとき、父だったらどうしていただろう。
そんなことを考えていると、カジノの支配人から電話が入った。
なんでも、今夜から店を再開するから、すぐに出勤してほしいということだった。
すぐさまカジノに向かい、息を切らせて更衣室に駆け込んだが、誰もいない。
他の店員はともかく、蒼までいないのは珍しい。
小首を傾げた、その時。
ガツッ――!
背後から、突然頭部を殴られた。振り返ることもできず、もう一度。
そのままなすすべもなく、珪太は床に崩れ落ちた。
途切れ行く意識の中、ただ一つだけ分かったのは、これが罠だということだった。
同じ日の、午後三時。
蒼は紅の部屋でお茶をしていた。
紅自身はもう完治したと言っているが、主治医からはまだ安静を言い渡されている。
コーヒーカップを渡すと、ふと、紅が蒼の手を見て眉を顰めた。
「どうしたんだ、その手。」
「あ。」
蒼の左手は、包帯でしっかりと巻かれていた。
実は昨夜、突然、血を見たいという発作に襲われ、自ら傷つけた場所だった。
「なんでもない、大丈夫。包丁をちょっと滑らせただけだから。」
「大丈夫じゃないだろう。ほら、まだ血が滲んでいる。
ガーゼと包帯を変えよう。」
拒む間もなく外された包帯の下から現れた特殊な傷口と、
蒼の左手にはめられた絃を収納しているバングルとを見比べて、紅はため息を吐いた。
「特殊な切り口だな。…本当のことを、教えてくれないか。
…それとも、私は碧の代わりにさえ、なれないか。」
突然出てきた碧の名前に、蒼は首を傾げた。
「どうして紅はそんなことを言うの?
前にも言ってたよね、碧の代わりって。
どうしてそんなに紅は碧にこだわるの?」
一度たりともそんな眼で紅を見たことがない蒼には、不思議で仕方なかった。
紅は薄く笑った。
「蒼は碧のことを、とても大切に想っているんだろう?」
あまりにストレートな問いに、返答に窮した。確かに、それは事実だ。
けれど、所詮人殺しのためのモノである自分に、誰かを想うことなんて許されるのだろうか。
血を欲する獣が、誰かを想うなんて…。
ぽん、と紅の手が蒼の頭に置かれた。何故かホッとする。
「さあ、蒼。教えてくれ。何があったんだ?」
ぽつぽつと、蒼は昨夜のことを語った。
突然、血が見たくなって、自ら傷をつけ、そして血を啜ったこと。
紅は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに普段の冷静さに戻り、
そしてカップを置くと、一瞬迷うような仕草をしてから。
「あ…。」
不意に蒼を強く抱きしめた。
「私には、何もできないのか。お前の力になれないのか。
こんなにもお前は苦しんでいるのに…。
お前の苦しむ顔なんて、見たくないのに!」
どうして、紅はこんなふうに言ってくれるのだろう。
まっすぐに紅の瞳を見つめると、一瞬伏せられた瞳は、再び自分を見つめて。
「好きなんだ。」
それはとても強い言葉。
「…愛しているんだ。」
愛…、それは硝がいつも自分に囁く言葉。
蒼の中の獣が、静かに目を覚ます。
「じゃあ、愛してるなら…、紅は俺が殺しても、愛し続けてくれる?」
にっこりと笑って、蒼は紅に問いかけていた。
そこに普段の蒼の意思は欠片も存在しなかった。
硝によって作られた殺人鬼が、自分を愛していると言ってくれた人に微笑みかけていた。
紅は、驚いたようだった。だが、すぐに微かに笑んだ。
「お前がそれで幸せになれるなら。」
ビクッ、と蒼の体が震えた。瞳に戻る、理性の色。
いま、自分はなんてことを…。
「違う、違うんだ!殺したくない、殺したくなんてないんだ!
違うんだ、なのに、なのに俺、なんで…!!」
「大丈夫だ、蒼。分かっているから。」
紅は穏やかな表情で、優しく蒼を包みこんでくれた。
ああ…、またあの狂気に飲まれてしまった。
愛している、と言ってくれた人を殺したいと願うだなんて。
やはり自分は殺人鬼だ。此処にいてはいけないのだ。
がくりと蒼は項垂れた。疲れてしまった、とても。
だから。
顔を上げた蒼は、今にも泣きだしそうな顔で紅に懇願した。
「壊れてしまう前に、貴方を壊してしまう前に、俺を殺して…!」
紅からの返答は、強い想いのこもったキス―――。
唇に感じる、柔らかな感触。伝わってくる、温かさ。命あるものの温もり。
暫くして唇を離した紅は笑っていた。
「少しは冷静になったか?
お前は少し疲れているんだ。無理もない。一度にいろいろなことがありすぎたから。」
「ごめん…、「愛してる」って言葉で、硝を思い出しちゃって。」
「お前を愛しているのは、硝だけじゃない。それに硝のアレは愛じゃない。最悪の執着だ。
…しかし、こんなことをしただなんて碧が知ったら激怒するだろうな。」
「碧は…、関係ないって。」
「素直じゃないな。
…とにかく、お前はお前だ。「S」の人形じゃない。
お前がここで諦めてしまったら、今までお前を守ってきた碧の立場はどうなる?
あいつの前では絶対に死にたいなんて言うな。
お前には、珀さん同様、自分の運命を切り開く力があるはずだから。」
紅の一言一言に、昨夜からの乱れた感情が少しずつ落ち着きを取り戻す。
「願うこと、望むことは決して無駄ではない。
もし、自分を見失いそうになったら、大切な人を強く想えばいい。
どんな雑念にも耳を傾けず、ただ強く。」
「ありがとう、紅。うん…、もう大丈夫。」
「…なんて、今の言葉は珀さんの受け売りなんだ。
私も以前、自暴自棄になっていた頃があって、その時に言われたんだ。
大丈夫だ、こんなに綺麗な目をしているお前が狂気に堕ちるなんて…、
この世に神がいないことになってしまう。」
ああ、守られている。碧も朱も紅も…、こうして守ってくれているのだ。
いつだって自分は独りではないのだ。
「紅がいてくれて、よかった…。」
「そう言ってもらえるだけで、私は救われるんだ。」
「ありがとう…。」
穏やかな、優しい空気が二人の間を流れる。
が、それを断ち切るように、蒼のスマホが振動した。非通知。
「もしもし。」
「珪太を…、預かった。今夜、旧参議院会館に来い。」
用件だけ告げると、電話は一方的に切れた。ツーという機械音が無感情に響く。
珪太が、攫われた。
自分の所為だ、自分が珪太をちゃんと守っていなかったから。
珪太が早晩狙われることは分かっていたのに。
瑛李からの任務が、蒼の足を珪太から遠ざけてしまっていた。
異変に気付いた紅が、何かあったのかと尋ねてくる。
冷静な暗殺者の顔に戻った蒼は、答えた。
「珪太が攫われた。碧と朱を呼んで、対策を立てよう。」
相談の結果、蒼と紅、碧と朱で行動することとなった。
議員会館の地図は朱が手に入れてくれたものの、
何処に珪太が囚われているかは、皆目見当がつかない。
それならば、2グループに分かれて虱潰しに探すのが最も効率が良い。
まだ怪我が治りきっていない紅の状態が心配ではあったが、考慮している余裕はなかった
一刻も早く、珪太の無事を確認し、救い出さなければ。
朱と碧は下の階から、蒼と紅は上の階から捜索することで最終的に決着はついた。
各々、自分たちの武器を手に、二手に分かれて車に乗った。
決戦が、始まる―――。
その頃、薄暗い倉庫のような部屋の中、両手足を縛られた珪太は「S」の構成員に囲まれていた。
鋭い視線でその中心にいる官房長官を睨み、珪太は問う。
「俺なんか攫ってどうするんだ?身代金目的なら、ウチに金はないぜ。
ま、それはねえよな。アンタら、この間も俺を狙ってたもんな。
…その割に、なんで殺さないんだ、俺を。」
「お前などいつでも始末できる。
ただ、今は獲物をおびき寄せるための餌になってもらう必要がある。」
「てめえっ、蒼たちを罠にはめようってのか!汚ねえぞ!」
「…うるさいヤツだな。少し黙ってもらおうか。……おい。」
官房長官の背後に控えていた人影が、すっと前に出た。
その正体に、珪太は愕然とする。
「な…、お前……。」
手刀が空を切る音がした、と同時に首に走る衝撃。
次の瞬間、既に珪太の意識は途切れていた。
午後10時、半ば廃墟と化した議員会館に黒い影が二つ。蒼と紅だった。
建物の周囲を車で周回してみたが、監視の姿は見当たらなかった。
「どうだ?」
紅の押し殺した声に、建物内部の気配を探っていた蒼は視線を戻した。
「おかしいんだけど…、そんなに人の気配の数は多くないんだ
でも、玲はいる。多分、大会議場に。だから、俺たちはそっちに向かおう。」
最上階の方から、玲の気配が感じられる。
双子だから分かる奇妙な感覚は、互いの体が呼び合っているからかもしれない。
「珪太のことは、碧と朱に任せよう。
人の気配が集まってる場所が、大会議場と地下の二か所に集中してるんだ。
地下は、碧たちが行ってくれるから。
…俺の勘だと、珪太は地下にいる。なんとなく、だけど。」
「…そうか、分かった。」
頷く紅に、蒼は小さく呟いた。
「俺…、玲を「S」から救い出したいんだ。」
「…ああ。」
紅は多くを聴かなかった。それが蒼にはありがたかった。
さすがに建物の入り口には見張りらしき男が二人いたが、簡単に倒し、内部に侵入する。
そのまま会館の中に入るが、どれだけ蒼が意識を研ぎ澄ましても、人の気配はほとんど感じられない。
代わりに地下から複数の人の気配と、最上階から僅かな人の気配が感じられる。
一気に6階まで駆け上がり、大会議室へと向かう。
6階にたどり着くと、突き当りの大会議室のドアが内側から開いた。
「お待ちかね、ということか。」
冷笑を浮かべる紅。開いたドアからは、ピストルを構えた「S」の構成員が雪崩出てきた。
「行こう、強行突破だ!」
蒼の言葉に紅が頷き、瞬く間に二人は構成員たちを無力化していく。
殺すことはなく、利き手、利き足を狙い、動きを奪う。
むやみな殺しは、二人とも望んでいなかった。
構成員全員が動けなくなったのを確認すると、二人は部屋に飛び込んだ。
「………。」
「………。」
部屋にはやはり、玲がいた。
凍えそうに冷たい瞳が、じっと蒼を見据えている。
その隣には、薄汚い笑みを浮かべた官房長官が立っていた。
「珪太君を返してもらおう。」
紅の言葉に、官房長官は声を上げて笑った。
「フン!バカめ、これは罠だよ!あのうるさいガキは別の場所にいる。」
蒼と紅は顔を見合わせ、頷いた。
よかった、碧と朱が向かった先に、珪太はいる。
官房長官は己の勝ちを確信しているのか、ニヤニヤと笑い、顎を撫でる。
「しかし、お前たちも物好きだな。あんなガキのために、わざわざ殺されにくるなんて。
…さあ、玲。お前の憎い弟を殺すがいい、さあ。」
官房長官に促された玲が、ゆらりと動く。まるで人間味を感じられない動きに、蒼はぞっとした。
今の玲は、殺意に支配されたロボット、そのものだった。
「紅、玲は俺に任せてくれ。代わりに官房長官の始末を頼む。」
少しも玲から視線を動かすことなく、蒼は紅に頼んだ。
玲との決着は、自分がつけなければならない。
「分かった。」
頷き、紅はナイフを構え、官房長官へと向き直った。
「ふ、ふん、私はこんなところで殺されるわけにはいかんのでね、
行かせてもらうよ。」
官房長官の背後には、大会議室の電源質のドアがあった。
徐にそこを開け、官房長官は逃げ込んだ。
追って駆け出す紅。
「紅っ!待って!」
これは罠だ、間違いなく。
けれど、紅は全く動じることはなかった。
「私は大丈夫だ。それより…、気を抜くな。」
それだけ言い残し、紅も電源質の中に姿を消した。
蒼と玲、残された部屋の中。玲の手には、ピストル。
今まで玲がピストルを手にしているのを、一度も見たことがなかった。
それなのに、今日は何故。何かがおかしい。
薄く笑う玲。
「今日こそ殺してやる、絶対に。」
助けたい、玲を助けたい。だがその術が見つからない。
玲の双眸には、自分に対する憎しみだけが滾っている。
「お前が憎い。俺の持っていないものを全部持ってるお前が憎い。
…ほら、お前もピストルを構えろよ。それとも死にたいのか?
可哀想なお兄ちゃんの為に死んでくれるのか?」
一歩一歩、玲が近づいてくる。
やはり使い慣れていないのか、ピストルはガンホルダーに戻し、ナイフを手に。
蒼もまた、絃を手にしていた。
こうするしか、ないのだろうか。
同じ体を持つ者同士の悲しい戦いの幕が、切って落とされた。
一方、碧と朱は地下駐車場の入り口から地下へと侵入し、
見取り図の中から最も怪しいと見込んだ地下倉庫へと向かった。
案の定、地下倉庫の周辺には人の気配が集まっており、朱が進んで囮になることを申し出た。
曰く、数分でおバカなとりまき連中は閉じ込めて来るよ、と言って。
こういうときの朱は、実に頼りになる。
頭脳派を通り越した狡猾さで敵を欺き仕留めるのは、朱の十八番だ。
案の定、囮につられた雑魚どもは倉庫の前からあっという間に姿を消し、
碧はなんなくその中に侵入することが出来た。
「碧さん!?」
倉庫に入って最初に耳に届いたのは、聞き覚えのある声――珪太の声だった。
両手足を縛られ、柱に括りつけられた珪太が部屋の一番奥にいた。
そして、その隣に佇むのは。
「燐斗…。」
玲の父親代わりである燐斗だった。
彼は表情を殺し、珪太のこめかみに銃口を突き付けていた。
「案外遅かったですね、碧さん。罠かと勘繰っていたんですか?」
唇だけがまるで機械のように動く。
「残念ですが、今回ばかりは罠なんて凝った物、用意していないんです。
今回の件は、官房長官、硝、そして私、それぞれ別々の思惑が混ざった、
実に酷い出来損ないの作戦ですよ。
支離滅裂すぎて、かえって貴方たちを攪乱できたようですが。」
真っ直ぐに碧を見つめる燐斗の瞳には、狂気よりも怖い決意があった。
「貴方は、本当に玲を救ってくれますか?」
突然の問いかけに、臆せず強く頷く。
玲を今までの暗い世界から、陽の当たる明るい世界へ救い出してやりたい。
それは碧の願いでもあった。
そして少なくともそれを玲自身も望んでいる。
あの日、縋りついてきた彼には、欠片も嘘はなかった。
燐斗はふと目を細めた。
「それならいいんです。」
何か達観したような雰囲気は、全てを諦めてしまったかのようで。
「燐斗、玲を救うには貴方もいなければ駄目だ。
貴方も「S」を抜け、陽のあたる場所で生きれば、玲もきっと…。」
しかし、燐斗は首を横に振るばかりだった。
「なんでだよ!」
不意に響いた声。珪太だった。穢れのない純粋な瞳が、射抜くように燐斗を見る。
「あんた、玲のこと、本当に大切に思ってるんだろ!玲だって、あんたのことを大切に思ってる。
それなのに、あんたは「S」に残ったら…、玲はあんたのことが心配で幸せになれないだろ!」
真っ直ぐな想いは、珪太が持つ何よりも強い力。
燐斗は穏やかに笑った。
「珪太君、君のことは玲から聞いたよ。君は本当にいい子だ。
その強さを、優しさを、決して忘れないでくれ。」
次の瞬間、燐斗は全てを断ち切るように強く言い放った。
「さあ、碧さん。私を殺してください。殺さなければ、珪太君を殺しますよ。」
燐斗の手のピストルは、珪太のこめかみに当てられていた。
「本当に、殺しますよ。」
安全装置の外れる音がし、トリガーを弾く金属音がキリリと鳴る。
碧もまた、ピストルを構え安全装置を外した。
珪太が叫ぶ。
「ダメだっ、碧さん、やめて!!」
そして、何もかもを消し去るように響いた―――銃声。
「あ…あ…。」
ガクガクと、珪太の体が震えていた。
けたたましい金属音とともに、燐斗の手のピストルが、碧の放った銃弾に弾き飛ばされていた。
ギリギリの、一か八かの攻防。女神は碧に微笑んだ。
「何故だ、何故、私を殺してくれないんだ。」
武器を失った燐斗は、その場に座り込んだ。
「貴方が生きていてこそ、本当の意味で玲は幸せになれる。
俺も珪太も、そう信じているからこそ、ですよ。」
だが、燐斗は力なく首を横に振った。
「私には、できない。あの子を、いや、あの方を残して、「S」を去るなんて…。」
「あの方…?」
「私にとって、玲と同じくらい大切で…、玲よりももっと孤独なお方。」
燐斗の瞳は、何処か遠くを見ていた。が、すぐに珪太を見て、少し笑った。
「悪かったね、君を巻き込んで。」
そう言って、燐斗は珪太を縛る紐を解いた。
すると珪太は立ち上がり、燐斗の手を強く強く握った。
「お願いです、一緒に来てください。玲と一緒に、生きてください。」
「君は「S」に大切なものを奪われても、まだこんなに真っ直ぐなんだね。」
燐斗の表情には、穏やかで優しい笑みが浮かんでいた。
愛しげな眼差し。
「燐斗…、話してください。貴方の知っている、蒼と玲の、そして珀さんの真実を。」
碧の問いに、燐斗は頷いた。そしてゆっくりと話し始めるのだった。
珀は、燐斗にとって義理の弟のようなものだったこと。
珀を作ったのは、燐斗の父親だったのだ。
燐斗は義理の弟である珀を守りたいと願っていた。
だが、願いは届かず、珀もまた珀自身と同様の「クローン」を生み出す研究者となる。
初めて珀が生み出したのは、蒼と玲のプロトタイプといえる、双子の「クローン」だった。
珀が、まだ11歳の頃、感情無く生まれてきた彼が、やっと少しずつ感情を手に入れ始めたころだった。
やがて珀は、感情を手に入れるにつれ、己の犯した罪に気付き始める。
毎夜、罪の重さに泣き続ける彼を、燐斗は見ていることしかできなかったという。
結局その後、珀の作った双子のうち一人は「S」から逃げ出し、一人は「S」に残った。
燐斗にとって玲と同じくらい大切な人とは、この「S」に残った「クローン」だという。
そしてその後、全ての感情を手に入れた珀は彼の後の妻と愛し合い…。
受精卵は硝の手に渡り、彼の手により双子の殺人鬼が作られることになったのだ。
そう、その「クローン」作成の技術は、珀が11歳の頃に行ったものと全く同じ施術だった。
硝には結局、珀を超えることができなかったのだ。
だが、それさえも、硝には満足にできなかった。
玲…いや本来の「蒼」の施術は、失敗に終わったのだ。
玲――本来の「蒼」には、「クローン」としての殺人本能は、ない。
それゆえ硝は、「蒼」を捨て駒にすることを思い着き、珀たちに会わせた。
「玲」を確実に手元に残す、そのために。
けれど、運命のいたずらか、結局出来損ないの玲が残り、蒼は珀たちとともに去った。
そこまで語り、燐斗はひとつ息を吐いた。
「珀が殺された日、彼らをあの場所に呼び出したのは、本当は私でした。」
「なっ…!」
珀たちがあんなに楽しそうに向かったハイキング、実は燐斗の呼び出しだったのか。
「あの数日前、私は珀に電話をし、彼にもう一人の子どもがいることを伝えました。
その子こそが、彼の愛した本物の「蒼」だということも。
意外にも、彼は冷静に事実を受け止めました。
そして、その子を自分たちに返してくれ、と言いました。
そこで私は交換条件を出したのです。「返す代わりに、今そちらにいる蒼に一目会わせてくれ」、と。」
ふっと燐斗が俯く。その姿は今まで見た中で一番、弱々しく映った。
「ですが、黄にそのことを知られ、上手く利用され、あんな事件になってしまった、というわけです。
…これが、私の知っている全てです。」
まだ、碧は頭の中で燐斗の告白全てが整理できないでいた。
無音化した部屋の中、ポツリと漏れる、燐斗の呟き。
「あの日…、珀が殺された日、私は本当は玲と蒼を取り換えるつもりでした。
玲は普通の人間です。けれど、逆に蒼は人ではない。血を啜る鬼、「クローン」だ。
あれの生きられる場所は「S」だけ。
「S」の鎖に繋がれていなければいつかは全てを破壊する。私の大切な玲さえも。」
燐斗の瞳が深い深い狂気を湛え始める。背筋が凍るほどの狂気。
そして。
「その考えは、今も変わっていませんよ。」
「!」
まさか。
燐斗が満足そうに頷いた。
「ご清聴ありがとうございました。…今頃、蒼は硝の腕の中ですよ。」
気づかなかった。自分はまんまと燐斗の罠にはめられていたのだ。
燐斗の真の目的は、硝が蒼を手に入れるまでの時間を稼ぐことにあった。
「くそっ!」
早く、蒼の元に向かわなければ。全てが手遅れとなる、その前に。
駆けだそうとした碧の背後で、燐斗の気配が揺れた。
思わず振り向いた碧の前で、燐斗は弾き飛ばされた銃を手に、穏やかに笑っていた。
「私の仕事は、おしまい。これでやっと眠れる…。」
パーン―――!
止めようと駆け寄った珪太の目の前で、燐斗のこめかみが弾けた。
赤い血を浴びて、呆然と立ち尽くす珪太。
「どうして…。」
珪太の涙声に、もう燐斗は答えなかった。
「行こう、珪太。」
その肩を抱いて、碧は歩き出す。
珪太は一度だけ横たわる燐斗を振り返ったが、すぐに前方を向き、二度と振り返らなかった。
大会議場での蒼と玲の戦いは、時間が経つにつれ段々と玲の有利に傾き始めていた。
持久戦に持ち込まれてしまった以上、持病を持つ蒼には断然不利だった。
心臓が不整な脈を打ち、息が乱れる。
「なあ、そろそろ楽になろうぜ?
お前が苦しむ姿をこれ以上見るのは忍びないんだ、兄としてさ。」
「ッ!」
兄――、その言葉が、蒼に一瞬の隙を生んだ。
「バーカ。お前の負けだ。」
「しまっ…!」
ズッ――!
左足の太腿を貫く激痛に、思わず声を上げた。
深々と刺さったナイフを引き抜かれると、温かい血が傷口から溢れ出し、そのまま蒼は床に崩れた。
「硝様からもらったピストル…、これで死ねるなら本望だろ?
じゃあな、サヨナラだ。」
そう言って玲が再び手にしたのは、ピストルだった。
真っ直ぐに向けられた銃口は、しかし。
「撃つな!トリガーを引くな!引いたら、ピストルは暴発する。
玲、お前は騙されているんだ!」
今まで手にしたことのないピストル、硝が渡したというピストル。
おかしいと思った、何故そんなものを今さら渡すのかと。
銃口を見て気づいた、そこには鉛が詰められていて、トリガーを弾けば暴発する仕組みになっていた。
「はぁ?命乞いか?…暴発?嘘ならもっと上手い嘘を吐けよ。」
「ウソじゃない!アンタは硝に騙されてるんだ。」
「うるさい…うるさいうるさいうるさい!!」
しかし、玲は蒼の言葉を聞き入れず、トリガーを弾く指に力を込めた。
もう、間に合わない…!
「お願い、もうやめてっ、お兄ちゃん!!」
「あ…。」
玲の動きが、止まった。蒼が縋るように、玲の足に抱きついたから。
その手から落ちたピストルを拾い、銃口の中を玲に見せる。
「この通り、だ。」
「ウソだ…、そんなの…。」
玲は震えている、怯えたような瞳が蒼をじっと見つめてくる。今にも、泣きだしそうに。
「そんなの、嘘だッ!!」
「残念ながら本当だよ。流石は蒼。よく気づいたね。」
叫んだ玲の背後から響いた、冷たい嘲笑を含んだ声。
その声に、蒼の意識が、全てが支配されていく。
「硝さま……。」
冷めきった不気味な笑みを浮かべ立つのは、硝だった。
震える玲と、見下ろす硝、為す術もなく見つめる蒼。
硝が玲に向けて言い放った。
「お前なんて必要ないんだ、消えろ、デキソコナイ。」
その瞬間、蒼の中で、玲の中で、何かが壊れる音がした。
それは、二人の記憶を封印していた鍵だった。
無意識のうちに、二人は互いの体を抱きしめていた。
互いから伝わってくる、記憶。
そして、忘れてはならなかった、約束―――。
目の前にあるのは、研究室の天井。
寝返りを打つと、隣で眠る兄「蒼」の姿があった。
しかし、どうしたのだろう。いつもは静かなこの部屋が、今日はやけに騒々しい。
不安を覚えて耳を澄ます。
「馬鹿な。」
呆然と呟いたのは、自分たちの親に等しい人――硝だった。
愕然とした様子で、カルテを見つめる、その手は震えていた。
「「蒼」の遺伝子配列が、私が施したものと全く違っている!!」
普段感情を表さない硝が、バンと音を立てて机にカルテを叩きつけた。
その声に驚いて「蒼」が火のついたように泣きだした。
硝の苛立たしげな声。
「お前は、失敗作なんだよ…。デキソコナイなんだ!ヒトゴロシの本能を持たないなんて…。」
デキソコナイ――それは、つまり、「殺人の本能を持たないクローン」であること。
その時は、分からなかった。
ヒトゴロシが正しく、デキソコナイが間違っているのだと、二人とも思っていた。
けれど、「蒼」が捨て駒として使われることが決まり、本物の両親と会う機会が増えると、
双子は真実を知ることになる。
デキソコナイが正しくて、ヒトゴロシが間違っているのだと。
「パパとママが言ってた。人は殺したらいけないんだって。
人を愛することが大事で、幸せなんだって。」
「でもね、硝様は僕にね、ヒトゴロシになれって言うんだよ。
ううん、ヒトゴロシになる、って。それが正しいんだって。」
「それは硝様が間違ってるんだよ。パパやママが嘘を吐くわけないもん。」
こんな会話をこっそりと兄弟で繰り返す日々。
「玲」はただ、まだ見ぬ両親を求めながら、狂気への坂道を転がり落ちていくことしかできなかった。
「ねえ、お兄ちゃん。僕ね…、もうすぐ壊れちゃうんだって。
人を殺すことが楽しくなっちゃうんだって。
…それだったら僕なんて、いない方がいいのにね。」
「蒼」は兄として、弟が落ちていくのを見ることしかできない自分を呪った。
自分は両親に囲まれて幸せなのに、「玲」はヒトゴロシの運命を背負っている。
同じ双子なのに、「玲」ばかりが苦しい想いを強いられている。
兄として、どうにかしなければ。「玲」を救わなければ。
そんな時、「蒼」は父から告げられた。
「「蒼」、明日もここにおいで。
そうしたら、パパとママがここから連れ出してあげるよ。
もっと広くて明るい場所で、三人で幸せに暮らそう。」
三人?じゃあ、「玲」は?
別れの日、「玲」は寂しげに儚い笑みを浮かべていた。
「お兄ちゃん、パパたちとここから出ていくんでしょ。
もう…会えないんだね。元気でね、幸せになってね。」
だが、「蒼」は「玲」にきっぱりと告げた。
「パパたちとは、「玲」が一緒に行くんだ。」
「え…。」
「お兄ちゃんはここにいても、壊れない。だから「玲」が行くんだ。」
「玲」は呆然としていた。「蒼」は笑った。
「今日からお前が蒼だ。お兄ちゃんが玲だ。」
「でも、それじゃあお兄ちゃんは!」
「大丈夫だ、お兄ちゃんはお前よりもずーっと強いからな。」
「……うん。」
やっと、蒼も少し微笑んだ。玲も安心したようだった。
だが、最後に一つ、と口を開いた。
「約束、して欲しいんだ。此処から離れても、お兄ちゃんのこと、忘れないって。」
約束―――。
「うん、絶対に忘れないよ。」
約束―――。
「じゃあ、お兄ちゃんは何があってもお前を守るって、約束する。」
約束―――。
約束しよう。何があっても、貴方を守り通すと。
約束しよう。どんなに離れても、貴方を忘れないと。
約束―――。
蒼も玲も、全てを思い出した。
二人は互いに縋るように抱きつくことしかできなかった。
約束、守れなかった。ずっと、忘れていた。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい、お兄ちゃん…!」
忘れないこと、それはそんなにも難しい約束ではなかったはずだ。
「俺が…、悪いんだ…。」
呟く玲の声。頬を伝う、涙。
「俺はお前を守るどころか、この手に掛けようと…。」
泣き声はやがて慟哭に変わった。
「なるほど、二人とも全てを思い出した、というわけか。」
冷たく響いた硝の声に、ハッとして蒼は顔を上げた。
この男…、この男さえいなければ、玲は傷つかずに済んだ。
「あんたさえ…、いなければ…。」
「私さえいなければ、なんだというんだい?
蒼、私はお前の帰る場所なんだよ?
お前は私の庇護の下でしか生きられない、そうだろう?」
硝の声が、眼差しが、蒼を支配していく。
逃げられない。
「ねえ、蒼。分かっているだろう、お前は自分の本性を。」
蒼を守るように抱きしめる玲を突き飛ばした硝は、
蒼の顎を指で掬い、その瞳を覗き込んで笑った。
「お前は、生き血を啜る、鬼だ。ヒトゴロシの鬼だ。」
蒼の瞳孔が、大きく開いた。
「ひ…、いあああああああああ!!」
喉を裂くような、絶叫。躰から、指先から、足元から、感覚が消えていく。
もう、壊れる。
意識が、自我が、瓦解していく。自分が壊れる。消えてしまう。
硝の両腕が蒼を抱き上げる。そしてキスをし、柔らかな唇を想うざま吸った。
深く、甘く、溶けるようなキスに、狂気が呼びさまされる。
このまま全てを硝に預けてしまえば、きっと楽になれる。
いっそ、このまま…。
もう、帰ろう。ヒトゴロシは、自分の居場所に―――。
麻薬のようなキスの後、酔ったような瞳で見つめてくる蒼に、硝は微笑みかけた。
「硝…さまぁ…。」
まるで先ほどまでとは別人のように、死者のように濁った蒼の瞳。
「さ…、おいで、帰ろう。」
これが正しい選択なのだ。
だって、こんなに気持ちいいのだから。楽になれたのだから。
記憶の片隅で誰かが呼ぶ声がしたけれど、
今の蒼にはそれさえもうどうでもよかった。
自分という存在は、ただこの人の為に、硝様の為に作られたのだから。
「お帰り、「玲」。…愛してるよ。」
愛してる―――。
何か、最近聞いた覚えがあるけれど…、
とても幸せな記憶があったような気がするけれど…、忘れてしまった。
歩き出した硝の首に、蒼はうっとりと両腕を回す。
そんな硝の足を、何かが強くつかんだ。玲だった。
唇を震わせるものの、言葉にはならない。
必死で縋りつく玲に、硝は一瞥をくれると、蹴り飛ばして歩き出した。
床に身をしたたかに打ちつけられた玲は、呻くばかりでそれ以上何もできなかった。
蒼―――。
ふと、蒼の記憶の片隅で、さっきよりもはっきりと誰かの声がした。
誰だろう。何故か気になる。
胸の中が温かくなるような声。とても…優しい声。
様々な記憶が、声が交錯して、気が狂いそうだ。
しかし、そんな蒼の異変に気付かず、硝が蒼の耳元に囁きかける。
「今度こそ、完全に本能を目覚めさせてあげる。」
こくり、と人形のように感情無く蒼は頷いた。
蒼を抱いたまま、硝は屋上へと向かう階段を上り始める。
刹那、またあの声が響く。
お前は、ヒトゴロシなんかじゃないさ―――。
キュ、と唇を噛む。今はもう、何も考えたくなかった。
朱と合流し、碧と珪太は大会議室へと向かった。
そこにいたのは、玲ただひとりだった。
部屋の中央で床に崩れ、呆然と泣いている玲に、三人は駆け寄った。
「玲っ、どうした、大丈夫かッ。何があったんだ!」
強く珪太が玲の体を抱きしめると、玲は珪太に縋りつき、涙声で言った。
「蒼も俺も…、全部、全部思い出したんだ。
昔交わした約束のことも、全部…。
そんな蒼を、硝が連れ去って…、このままじゃ蒼は壊されちゃう…。」
ぼろぼろと流れ落ちる涙に、嘘はなかった。
碧の中で、何かが壊れる音がした。
このままでは、蒼を失ってしまう―――。
「蒼たちは、何処へ!?」
尋ねると、玲は震える指で屋上を指した。
「朱、珪太、玲のことを頼んだ!」
二人に玲のことを頼み、碧は返事も待たずに屋上に向けて駆け出した。
屋上へと続く階段を全力で駆け上りながら、碧の頭の中は蒼のことでいっぱいだった。
出会った頃から、蒼は特別な存在だった。
誰にも心を開かないという彼が、初対面の時から碧には不器用ながら笑顔を見せてくれた。
とても可愛らしい、愛しい笑顔だった。
絶対に守ってやるんだと、あの時心に誓った。
その後、珀たち一家が殺され、蒼だけが生き残った時、その想いは一層強くなった。
だが、まだ学生だった自分には彼を引き取るだけの力はなく、
親戚中をたらいまわしにされた蒼は、いつしか大人たちの玩具にされていた。
一年半の月日の後、真実を知り、憤怒に任せて蒼を取り戻しに行ったとき、
彼はまるで壊れた人形のように、絶望によどんだ瞳をしていた。
けれど、そんなときでさえ、碧の姿を見ると、蒼は優しく「大丈夫」と言って微笑んだ。
守りたい、いや、守らなければならない。
そう胸に誓ったのが、あの頃だった。
けれど。
今思い出せば、それは自分の驕りだったのかもしれない。
最近、気づいた。
自分はずっと蒼を守っているつもりだったけれど、本当は守られていたことに。
母を失くし、父との不和に悩み、恋人が去った後でも、いつでも蒼だけは傍にいてくれた。
そして言葉だけでなく、その眼差しで、腕の温かさで、壊れそうな心をそっと包んでくれた。
独りではないと、教えてくれた。
自分の中で、蒼の存在が大きくなる―――。
ただの義弟でもない、パートナーでもない。
とてもとても、大切な人。かけがえのない人。
それなのに、守ってやれなかった。
自分の中の本能等の戦いに、蒼が疲れ切り憔悴していたは知っていた。
それなのに、何もできなかった。
守ることで、蒼を自分に縛り付け、自由を奪ってしまうことになるのを恐れて。
「死んだ方がいい…」という言葉が、今も耳から離れない。
人に弱みを見せない蒼が、あんな言葉を口にしたのだ。
もう、自分自身との戦いが、彼を限界まで追いつめていたのだ。
このまま、疲れ果て抵抗する力を失った蒼は、硝の下で…?
こんなことになってしまうならば、もっと早く自分の気持ちに素直になればよかった。
自由を奪うことを恐れるよりも、自分にはもっとしなければならないことがあったはずだ。
伝えなければならない言葉があったはずだ。
結局、自分は逃げていただけなのだ。
この、とても強い、ともすれば自分でも制御できなくなってしまいそうな想いから。
闇の中を、駆ける。ただ一心不乱に前へと進む。
間に合うのだろうか。
蒼はまだ、自分の知っているままの蒼でいてくれるのだろうか。
足取りが一層早くなる。急ごう。急いで、蒼を救い出そう。
硝に蒼の全てを奪われてしまったら、悩むことさえ、もはや無意味になってしまうのだから。
眼下には、官庁街の桜並木が広がっている。
冷たい街灯に照らされて、薄紅色の花は妖しく香るように、風にあおられ散っていく。
はらはら、はらはら、とめどなく、とめどなく。
空には青褪めた月が、凍えるように輝く。
「さあ、そろそろお迎えが来るよ。」
静けさを乱す声は、硝の声。
その腕にしっかりと抱かれて、蒼はただ桜の散りゆくさまをじっと見ていた。
その双眸には、もはや狂気しかない。
散りゆく花弁の色が、何故か真紅の血の色を思い起こさせて、
蒼は唇の端を艶やかに綻ばせた。
血が、血が、たくさん欲しい。
自らの手首に歯を立てて吸えば、甘い味が口に広がって、蒼は幸せそうに笑んだ。
ずっとずっと、待ち望んでいたこの香り。自分を酔わす、甘い香り。
硝が蒼の傷ついた手首を取り、笑った。
「もう少しだけ、待つんだよ。
そうすれば、もっともっとたくさんの血を、お前は得られるんだからね。」
そう言って、硝は蒼の柔らかな髪を梳き、また笑んだ。
「お前は本当に…、赤い血に染まった美しい白い天使のようだ。」
美しい、死の使者。残酷なる天使。
硝の唇が、蒼の頬に触れる。
刹那、ふと蒼の脳裏をあの不可解な声がかすめた。
俺には、お前が必要なんだ―――。
胸が苦しくなる、酷く懐かしい声。
いや、懐かしむほどこれは昔の出来事だったろうか。
誰、だっけ、この声のひと。
とてもとても大切なひと。
それなのに、思い出せない。思い出したらいけない。
ああ、胸が苦しい。
そんな蒼の迷いを断ち切るように、ヘリコプターのローター音が近づいてきた。
そして、屋上に降りる。
「さあ、行こう。」
「何処…、行くの…?」
突然、蒼の胸に湧き上がった言いようのないほどの不安に、眼差しが頼りなく揺れた。
なんとなく、此処を離れてはいけない気がしたのだ。
なんとなく、誰かが自分を迎えに来てくれる気がしたのだ。
硝は蒼を抱き上げたままヘリコプターに近づきつつ、答える。
「お前の本当の居場所に帰るんだよ。」
本当の居場所?そこはそんなに遠い場所じゃなかったはずだ。
もっと近くで、もっともっと温かな場所を、自分は知っているはずなのに。
けれど、それさえ思い出せなくて。
ヘリコプターのハッチが開かれる。
「さあ、行こう。」
上空の月が、冷たい月が、一瞬隠れてその輝きを失う。
いいんだろうか、このまま行ってしまって。
戸惑い、疑念。きゅ、と蒼は硝の腕を掴んだ。
だが、そんな小さな抵抗は無視をして、硝は蒼とともにヘリコプターに乗り込んだ。
刹那。
「蒼ッ!!」
声が、響いた。さっきから脳裏に響いていた、あの懐かしい声。
大切な人の声。
この声は、誰の声?
「あ…あ…。」
蒼の中で、感情が、記憶が、意識が混乱を始めた。
「ん…っ、…ああっ…。」
引き裂かれるように、胸が激しく軋み出す。
壊れる―――。
体が、心が、もう。
ヘリコプターのプロペラが、再び回転し始めた。
その強い風の中を走ってくるひと。
金色の長い髪、白い肌、栗色の強い瞳。
もう少しで思い出せる、大切なひと。
ダメ。このままじゃ。
ね、俺は間違ってるの?ここを去るのは。
静かに、そっと、強く感じる。
ここに、残らなきゃ…。
行ってはいけない。硝と一緒に行ってはいけない。
走る来る人を見つめ、硝が一瞬激しい憤怒の形相を浮かべたが、
それはすぐにまたあの余裕の笑みに変わる。
「おや、またあなたでしたか。でも、残念でしたね、今度こそ私の勝ちだ。」
見せつけるように、硝は蒼の口に、唇に、何度も何度もキスを繰り返した。
「や…あ…。ふぁっ…。」
甘いキスに、快感に、流されそうな意識。
でも、違う、何かが違う。このままじゃ、ダメなんだ。
「貴様ッ!蒼を離せ!!」
「貴方の負けなんですよ、では、サヨウナラ。」
ヘリコプターが、ハッチを開けたままで浮かび上がった。
すぐさま、屋上のコンクリートから離れていく。
違う、俺が本当に欲しいのは。本当に帰るべき場所は。
高度が上がっていく。眼下の桜の色が変わっていく。
血の色ではない、優しい優しい薄紅色。
俺に必要なのは、血じゃなくて。俺の帰る場所は、「S」じゃなくて…。
強く、風が巻き起こり、ここまで届くはずのない桜の花弁を、
蒼はその目で見たような気がした。
夢を見ているような、幻想的で清らかな景色。
その中に立つ、貴方は誰?名を呼んでくれる貴方は誰?
貴方もまた、幻なの?
ヘリコプターを追うのをやめたその人が、幻かもしれないその人が、立ち止まった。
そして。
「行くなああーーっ!俺は、お前のことを―――――!!!」」
アイシテル
トクン…。
小さく、微かに胸が鳴った。それは、目覚めを告げる鼓動。
ああ、思い出したよ…、大切な大切な…、世界で一番大切な……、貴方のこと。
蒼の唇が、小さく動いた。
「碧。」
これが大切な、貴方の名前。
ヘリコプターは数メートル既に浮上していた。
だが、蒼は迷うことなく、開け放たれたままのハッチの前に立った。
風が、桜が、闇が、誘う。
碧は、両手を大きく広げた。
蒼の頬に浮かぶ、微笑み。
俺の帰る場所は、貴方の腕の中だけなんだ―――。
「やめろ、蒼!おいっ、ハッチを閉めろ!」
硝の叫び声。
地上の桜の花弁が、一斉に舞い上がった。風を、感じる…。
ふわり、と蒼の華奢な躰は、虚空へと舞った。
伸ばされた硝の手が、その腕を掴もうとしたが、間に合わなかった。
闇に堕ちていく蒼の姿を見つめ、ただ硝は呟いた。
「本当にお前は、天使のようだね。」
それはまるで、永遠とも思えるほど、長い時間の後。
腕が、温かい腕が、体を包み込んだのを感じる。
自分の両腕を、その人の首に回す。
同時に感じた、強い衝撃。それも、その腕――碧の腕が、全て受け止めてくれる。
結果、二人はコンクリートの屋上の上で、抱き合う形になった。
「おかえり。」
目の前の碧は、微笑んでいた。優しく、優しく、包み込むように。
「ただいま。」
蒼もまた、笑顔で返す。
そして、どちらともなく唇を合わせた。
貪るように角度を変えて、何度も何度もキスをして。
そっと目を閉じた蒼は、体の力を抜き、その身の全てを碧に預けた。
ああ、そうだ。
碧のこの温かな腕の中、それは世界で一番安心できる、
世界で一番大切な、自分の帰る場所なのだ。
ヘリコプターは既に、夜の闇の中へと飛び去っていた。
もうそのプロペラ音さえ聞こえない。
長い長いキスの後、改めてもう一度蒼は微笑んで告げた。
「ただいま、心配かけてごめんね、碧。」
月を隠していた雲が切れ、清らかな月光が碧の顔を照らし出す。
その笑顔は、いつの間にか泣きだしそうな顔に変わっていた。
「失ってしまうかと思った…!本当に本当に大切なお前を、
今度こそあの男に奪われてしまうかと思った!
ごめんな…、ごめん。守ってやるって言っておいて。
それなのに、またこんな目に遭わせてしまって…。」
蒼を強く抱きしめ、その胸に顔を埋めてしまった碧は、泣いているようだった。
初めて目にする、こんなにも弱った碧の姿を、蒼は驚き見つめていた。
「もう、何処にも行かないでくれ。俺を置いて、行かないでくれ…!」
優しい、慈愛に満ちた微笑が、蒼の頬に浮かんだ。
そっとそっと、蒼の手が碧の背中を撫でる。
「うん…、もう、何処にも行かないから。大丈夫だから。
ずっと、傍にいるから…。」
月の光に照らされた二人の姿は、何処か宗教画を彷彿とさせた。
「大丈夫だから、ね?ごめんね?心配かけて。だから、もう…。」
苦しまないで。
「碧…、助けに来てくれて、本当に本当にありがとう。」
やっと、碧は顔を上げた。
まだ少し泣きだしてしまいそうだったけれど、それでも随分落ち着きを取り戻していた。
その胸に、今度は蒼が顔を埋めた。嗅ぎ慣れた煙草の匂いに、緊張が解けていく。
「…遅くなって、ごめんな。」
耳元で柔らかな碧の声がする。
「ううん、いいんだ。…碧が来てくれただけで。」
「傷、酷いな、歩けるか。」
ふと、碧の声音が変わった。玲に傷つけられた傷に気付いたようだった。
と同時に蒼もまた、玲のことを思い出す。
「玲は!?玲は無事だよね!?」
碧は一瞬、複雑な表情をしたものの、頷いた。
「ああ、珪太と朱が一緒にいる。だから大丈夫だ。」
その時、ふと思い出した、自分に課せられた任務。
珪太を「組織」に入れることと、玲を暗殺すること。
失敗すれば、碧は…。
嫌だ、碧を失いたくない。
これからも、傍に、いてほしい。でも、どうすればいいのだろう。
願うこと、望むことは無駄ではないんだ―――。
あの夜の紅の言葉が、そっと蒼の背中を押してくれた。望むこと…。
「碧。本当にずっと傍にいてね。…俺を、独りにしないで。」
碧の気配が一層優しく、温かくなる。そして告げられた答え。
「ああ、俺の方からお願いするよ。ずっと、一緒にいような。」
「うん…。」
素直に蒼は頷き、碧の手を借りて大会議室に向かって歩き出す。
最後の仕事、玲たちを迎えに行くために。
大会議場には、珪太と朱に守られるようして、呆然と泣きじゃくる玲がいた。
全ての記憶を取り戻し、大切な弟を手に掛けようとした罪を悟った玲は、
ただ弱々しく、哀れなほどに震えていた。
歩み寄り、膝をついた蒼は、玲に深々と頭を下げた。
「玲、ごめんなさい。」
二人の約束。
蒼は、忘れないことを誓った。
玲は、蒼を守ると誓った。
忘れないことなど、難しいことではなかったはずなのに、
それを忘れた己の方がよほど罪深く、謝らねばならない立場にあることを蒼は重々承知していた。
「裏切り者は、俺なんだ、本当にごめんなさい、玲。」
だが、玲は首を激しく横に振り、そして暫く俯いてから顔を上げた。
その顔には、弾けんばかりの笑顔が浮かんでいた。
「蒼が悪いわけじゃない。俺たち、二人とも忘れっぽかったんだな。
もう謝らないで。俺の方が酷いことしたんだ。その怪我とか、痛いだろ…。
でも、蒼が許してくれるなら、俺、もう一度、蒼のお兄ちゃんに戻りたい。」
「玲…、ありがとう。俺も、玲の弟に戻りたい。」
微笑みあう二人の肩に、碧が手を置いた。
「玲、俺たちと一緒に行こう。
これからは、俺たちと、一緒に住もう。」
玲は酷く驚いた顔をし、まじまじと碧を見た。そして、問うた。
「でも…燐斗は?」
一瞬、場を静寂が満たした。
いたたまれない様子で、後ろを向く珪太。泣いているのかもしれない。
蒼もまた、碧から燐斗の最期は聴いていた。
なんと答えればいいのか分からないでいると、きっぱりと碧が言った。
「燐斗は、死んだよ。」
残酷なほど、はっきりとした口調で。
大きく見開かれた、玲の目。
壊れてしまいそうなほど、その体がガクガクと震えていた。
「…会いに、行くか。」
倉庫の中は、静寂に包まれていた。
その中にただぽつりと、燐斗の遺体は横たわっていた。
見つめる玲の瞳が、わなわなと震えた。喉の奥から、引き攣った声が漏れ。
そして。
「燐斗ぉぉぉ!」
物言わぬ燐斗を抱きしめて、玲は泣いた。魂を揺さぶるような慟哭だった。
「どうして…!どうして!?」
誰一人、泣き崩れる玲に声をかけることはできなかった。
どれくらい、玲は泣き続けていただろう。
不意に何かに気付いたように燐斗の遺体の胸ポケットに手を突っ込んだ玲は、
そこに入っていた封筒を取り出した。
宛先はまさに、「玲へ」となっていた。
一心不乱に貪るように、中の便箋を読んでいた玲の瞳から、涙が消えていく。
代わりに少しだけ頬に浮かぶ、微笑み。
「もう…燐斗らしいなあ。俺のこと、こんなに想ってくれて…。
でも、こんな終わり方で俺が喜ぶと思ってたなら、ホント、バカだ。」
言葉とは裏腹に、愛しそうに、玲はそっと燐斗の唇の血を指で拭ってやった。
そして、改めて玲は蒼に向き合うと、言った。
「蒼、俺はお前に酷いことをした。許されるとは思っていない。
でももし、お前が俺のこと、少しでも許してくれるなら…、
今度こそ、俺はお前を守りたいんだ。」
今の玲は、今までのワガママな子どもの表情ではなく、兄としての風格が漂っていた
そんな実兄を頼もしく想いながら、蒼は微笑んだ。
「許すなんて…。さっきも言ったよね、俺の方が酷いことをしたんだって。」
「違うよ、蒼。でも…、許してくれるなら…、どうすれば俺はお前を守れるんだろう。
お前は、俺にどうして欲しい?」
玲の言葉に、蒼はすかさず答えた。
「一緒に暮らそ?」
碧と同じ言葉に、玲はためらうようにぽつりとその場にいる全員に尋ねた。
「みんな、本当にそれでいいの。」
皆が大きく頷く。
「これでいつでも会えるな!」
珪太の言葉に、嬉しそうに笑って玲は彼に抱きついた。
「ありがとう、珪太!」
これからの玲の生活も決まった。
あと残るは、官房長官を追った紅を探すことだけだ。
皆、歩き出す。
最後に一度だけ、玲は燐斗を振り返り、まだ濡れた瞳のまま微笑んだ。
唇が、そっと動く。
ありがとう、サヨナラ。……お父さん―――。
官房長官は、紅が追い付くすんでのところで、待たせていた車で逃げてしまっていた。
走り去る車を見つめる紅の背後から複数の足音。
振り向くとそこには、蒼たちが立っていた。
「紅っ、無事だった!?」
「ああ…、官房長官は取り逃がしてしまったがな。」
「そんなこと、いい。それより、紅が無事なら。」
蒼の言葉に、碧も朱も頷いた。
「それで、そっちは上手くいったんだな。」
蒼にそっくりな少年、そして見慣れない少年が遅れてやってきた。
それを見ただけで紅はすべてが解決したことを悟った。
「とりあえず、帰ろう?」
蒼の言葉に、朱は頷き、歩き出す。
忘れていたように強く吹いた風にあおられて、
桜の花弁が一瞬空を白く染めるほど、一斉に舞い上がった。
白く白く、全ての罪を許すように―――。
後日、蒼は瑛李に呼び出された。
作戦の失敗に対しての罰を言い渡す、そう電話口では言われた。
瑛李の執務室で、直立不動の蒼に言い渡されたのは。
「今回の件については、全て不問とする。
碧君の幹部入りについても、今回は猶予とする。」
思いもよらなかった大甘の裁定に蒼が目を見張ると、瑛李が深々と吐息を吐いた。
「一昨日、碧君からまたしても正式に断りを入れられたんだよ、幹部の件は。」
蒼の唇の端に、微かに笑みが浮かぶ。
あの日、碧に伝えた言葉、ちゃんと受け止めてくれたのだ。
傍にいて、独りにしないで―――。
「君がまさか、そこまで恥知らずな人間だとは思わなかったよ。
碧君にこの話をしたんだろう?」
苦々しげに瑛李は言ったが、反論も肯定もせず、蒼はただ静かな瞳で瑛李を見つめていた。
「…もういい、下がれ。今後はしくじるな、以上だ。」
「失礼します。」
礼をして、蒼は部屋を出た。
「くそっ!忌々しいガキめ!早く狂ってしまえ!」
ドアが閉まると同時に、瑛李は拳を机に叩き付けるのだった。
玲が加わって、五人での生活が始まった。
頑張り屋の割に残念ながら腕が伴っていない玲によって、
毎日、蒼の悲鳴が響き渡る家は、今までにないくらいににぎやかだ。
何度失敗してもくじけない玲に、もういい加減諦めてくれないかな…というのが蒼の本音だが、
「お前ならできる!」と煽る碧の所為で、事態は悪化の一方だ。
一度、碧の首を絞めてやりたい、本気で思う。
蒼と玲の名は、今呼ばれているそのままにすることにした。
いまとなってはそれぞれの名前には、多くの人たちの想いが込められているから、
だから、このままでいいのだ。
ちなみに、口づけを交わした後も、碧との関係も紅との関係も何も変わらなかった。
蒼は毎日碧のだらしなさを怒ってばかりだし、碧は蒼をからかっては喜んでいる。
紅はそんな二人のやりとりを、呆れながら苦笑している。
どうか、この明るく幸福な日々が永遠に続きますように。
それはこの家で暮らす誰もが、そして友人である珪太もともに抱く願いであった。
【END】