Chapter4:Forget Me Not
蒼の病状は急激に悪化していた。
玲を家に迎えてから、暫くは比較的穏やかな日々が続いた。
だが、ある夜、暗殺の任務の最中、蒼はターゲットを追いつめた途端、激しい発作に襲われた。
そのまま意識を失い、逆にターゲットの手にかかる寸前で碧に救い出され、そのままT大病院に入院した。
入院は、一週間続いていた。
主治医である紺野の近頃のお小言は、しかし、何処か切羽詰まった色を滲ませていた。
自分の体が長くもたないことは知っていた蒼だったが、此処に来て思った以上に体が言うことを聞かない。
思い当たる原因はある。
玲との一件があって以来、「組織」からの任務が急激に増えたのだ。
それは碧が「組織」の幹部とならないことを条件に、瑛李と蒼との間で密かに交わされた約束だった。
血を見ることで、目覚める狂気。必死でそれを押し殺す理性。
二つの心のせめぎ合いが、蒼の心身を確実に蝕んでいった。
必要だと言ってくれた碧のために生きたい、でも、狂気に屈してまで生きようとは思わない。
葛藤はついに、こうして蒼の体を壊したのだった。
一方、碧は蒼を救う方法を一向に見つけられないまま、苛立ちを募らせていた。
遺伝子地図のないまま、見切り発車で遺伝子治療は始まっていた。
だが、当然のように芳しい結果は見られなかった。
やはり、硝の持つ遺伝子地図がどうしても必要なのだ。
その硝の居場所は、杏として掴めない。
八方ふさがりの現状に、焦りと苛立ちに苛まれる。
蒼が自分にとって最も大切な存在だと、本当は片時も離れたくないと、ようやく理解したのに。
それなのに、その人の命の灯が弱くなっていくのを止めることが出来ない。
無力な自分が許せない。
病院の煙草部屋でぼんやりと宙を見つめていると、そこに紺野がやってきた。
そして、いきなり呆けている碧の頬を拳骨で殴り、胸倉を掴みあげた。
「てめえは馬鹿か?てめえが沈んでてどうするんだよ。坊やは今、必死で生きようとして戦っている。
それなのに、それを支えてやらなきゃならねえてめえが、葬式みたいな面しててどうする!」
活を入れられた碧は、気持ちを切り替え、再度蒼を救うと胸に誓う。
と、ふと紺野は満足そうに笑い、言うのだった。
「蒼の病状、安定してきたから、明日退院していいぞ。
ただし、条件がある。
ディーラーも暗殺も、全部やめさせろ。」
碧が病室を訪ねると、蒼は眠っていた。
名を呼ぶとゆっくりと目を開け、辛そうに体を起こしたが、すぐに微かに笑みを浮かべた。
「あ、来てくれたんだ。」
掠れた声が何処か嬉しげに感じられたのは、願望ゆえか。
夕日に染まった微笑と無防備なパジャマ姿の胸元に、碧はどきりとする。
硝の手から蒼を救いだした日にキスを交わしてから、二人の関係は少しずつ変化した。
時を重ねるごとに、意識してしまう互いの存在。
二人きりの時に流れる、ぎこちない、何処か気まずい空気。
こんな無駄なことをしている時間なんて、本当はないのに。
伝えたいことはたくさんあるのに。一分一秒だって傍にいたいのに。
それなのに、上手く言葉を紡ぐことのできない、不器用な自分がいた。
蒼もまた、以前よりも無口になった。
「兄弟」という関係が崩れはじめ、今の二人は宙ぶらりんの関係だった。
退院できることになった、と告げると蒼は素直に喜んだ。
だが、暗殺の仕事とディーラーの仕事を辞めることが条件だと告げると、途端に表情を曇らせた。
「それは…できない。」
「それじゃあ退院できないぞ。
なあ、蒼。どうしてなんだ?どうして辞められないんだ?
俺が、お前を絶対に守るから。
だからもう、お前は人を殺さなくていいし、これ以上自分の身を犠牲にしなくたっていいんだ。」
自分の想いをまっすぐに伝えると、蒼は微笑んでくれた。
けれど。
「仕事は、辞めたくないんだ。…居場所が、欲しいから。」
その言葉を聞いた途端、碧は蒼を両腕で抱きしめていた。
腕の中で抗うように蒼が身じろぐを感じ、胸の中で醜い自分が叫ぶ。
俺では、ダメなのか。俺では、お前の居場所になれないのか、と。
「碧…、はなして…。」
怯えたような声に、自分が痛みを感じさせるほど強く、
蒼を抱きしめていたことに気づき腕を離す。
「お前の希望は分かった。でも、暫くはどちらにせよ休まないとダメだ、いいな。」
「でも…。」
「でも、じゃない。」
先ほどまでとは全く違った威圧的な口調で言い捨てて、部屋を後にする。
耳の中では、あの男――硝の言葉が響いていた。
「貴方も結局は、私と同じ人種なんですよ」という言葉が。
病室に独り残された蒼は、自分の言葉が碧を傷つけてしまったことを悔やんでいた。
碧のことを本当に本当に大切に想っているのに、傍にいてくれることが嬉しくてたまらないのに。
それなのに、過去が――義父に支配された日々が足枷となる。
「愛している」という言葉も「抱きしめる」という行為も、無意識に義父のことを想い出し、
体が拒絶してしてしまうのだ。
碧の腕の中こそが、自分にとって最も大切で優しい居場所だと知りながら。
少しずつすれ違う、二人の想い。僅かな軋みは、やがて―――。
蒼の部屋を出て、気晴らしに煙草を買いに来た碧は、そこで玲と珪太に会った。
二人とも、これから蒼の見舞いに行くのだという。
すっかりあの家での生活になじんだ玲は、碧の手の中の煙草を見て唇を尖らせる。
「また煙草買ってるー!ダメだろー?蒼が怒ってたよ!家がヤニ臭くなるって。」
「こら、玲っ、病院であんまりデカい声出すなって。あ、碧さんこんにちは。」
玲と珪太はすっかり仲良くなり、珪太の仕事が休みの時は、必ず一緒に過ごしている。
まるで失くした時を取り戻すかのように、「普通」の生活を楽しんでいる。
その幸せそうな笑顔が、碧にとっては何よりも嬉しかった。
と、ふと、玲が表情を曇らせて碧の顔を覗き込んできた。
「ね、碧。何かあったの?すごく、苦しそうな…痛そうな顔してる。
もしかして、蒼と何かあったの?」
玲の勘は、鋭い。隠し事をしてもそのまっすぐで澄んだ瞳は全てを見抜いてしまう。
観念した碧は、先ほど蒼の病室であった出来事をかいつまんで玲に話した。
全てを話し終わると、玲は思いがけないことを口にした。
「分かった。じゃあ、蒼が元気になるまで、俺が代わりにカジノで働く!」
碧も珪太も一瞬言葉を失った。
「俺が蒼のフリをして働く。大丈夫、ヘマなんてしないから。」
苦笑を浮かべ、碧は玲の頭にポンと手を置いた。
「玲…、ディーラーっていうのは、そんなに簡単な仕事じゃないんだぞ。」
「分かってる、分かってる、けど、俺、蒼を守りたいんだ!
俺にできることなんて、そんなにないけど…、でも、やれることをやりたい…。」
強い玲の口調に、碧は押し黙った。
自分が考えていた以上に、玲は蒼のことを大切に思っていた。
そして、自分よりもずっと、正しく蒼の兄だった。
「碧さん、俺からもお願いします。玲の言うようにさせてくれませんか。
ちゃんと、玲の面倒は俺がみますから。」
横から様子を見ながら言葉を挟んできたのは、珪太だった。
彼が一緒ならば、玲をフォローしてくれるだろう。
ふう、と碧は吐息を吐いた。降参だった。
「分かった、一緒に蒼を説得しに行こう。」
「ありがとうっ、碧!」
嬉しそうに抱きついてくる玲の頭を、くしゃくしゃと撫でる。
珪太も安心したように笑っている。
まっすぐで純粋な心を持つ二人には、どうやら到底自分は敵わないようだった。
数日後、蒼は自室のベッドで小さくため息を吐いた。
こんな日がもう何日続いているだろう。ベッドに繋がれた虜囚のように、此処から動くことを許されない日々。
もう大丈夫だから、と何度碧に告げても、彼は全く取り合ってくれなかった。
最後には決まって、「これ以上俺を困らせないでくれ」と悲しげに呟かれ、蒼の方が折れた。
碧が、皆が心から心配してくれていることは、分かっていた。
けれど、どうしても未だに受け入れられないことがあった。
それは、玲が自分の代わりにカジノに勤めること。
退院する前日、病室に碧と珪太、そして玲がやってきて、そのことを告げられた。
もちろん、そんな申し出は拒否した。
あの店に、あの純粋な玲を勤めさせるなんて、許せるはずがなかった。
だが、玲の真剣な眼差しと強い意志に、最後には首を縦に振った。
今頃、玲は珪太のフォローのもと、あの店で「蒼」として働いている。
ただし、一つだけ、絶対に守るよう、「あること」を約束させて。
カジノでは昼の休憩時間に、珪太が玲の指導を行っていた。
いつもの明るくて少しおっちょこちょいな珪太とは全く違うプロの顔で、
時には玲を強く叱責する。
玲もまた、どれだけ叱られてもくじけることなく、真剣な顔でテーブルに向かっていた。
蒼の代わりにカジノに勤めることになった玲は、こうして人のいない時間を利用して、
珪太からディーラーとしての指導を受けていた。
もともと器用な玲は、そう簡単にはばれないほど上手く、蒼を演じていた。
ディーラーとしての腕前も、珪太が舌を巻くほどで、とても初心者とは思えないものだったが、
彼が演じているのは、なんといってもあの「蒼」なのだ。
一介のディーラーとは違う。彼を演じるきるためには、どうしても厳しい訓練が必要だった。
昼休憩の時間が半分終わると、二人は特訓を終えて食事のために店の外に出た。
まだ夏の暑さが残る公園のベンチで、二人は並んでコンビニで買ったサンドイッチを食べていた。
店にいたときとは違い、いつもの顔に戻った玲に、珪太は何故かホッとする。
「ここなら誰も見てないから、蒼のフリをしなくてもいいよね。」
そう言って笑う玲に、珪太はいたたまれなくなり、声をかけた。
「…なぁ、お願いだから無理はするなよ。」
けれど、玲はにこりと笑って首を傾げてみせた。
「平気だよ?無理なんてしてないし。
…心配してくれてるんだね、珪太。優しいね。でも、俺は大丈夫。
多分、珪太が思ってるよりもずっと、俺は楽しんでるよ。」
「強いな、玲は。」
この細い体の何処に、そんな強さが隠れているのか。
珪太の言葉に、ふと玲が動きを止めた。そして。
「強くなんかないよ。俺、本当は強くない。
でもさ、守りたいものがあるから。だから強くなれる。
俺、本当はすごく弱虫だけど…、でも、今は蒼の居場所を守りたいから。
だから、頑張れる。」
そして、今まで以上ににっこりと笑って。
「それにね、珪太がいてくれるんだもん。だから頑張れるんだよ、ちゃんと。」
臆面もなく告げられる言葉に、珪太はただ目を丸くするばかりで。
「俺ね、珪太のこと、大好きだからっ!」
他意はないと分かっていても、玲がただ無邪気なだけだと知っていても、
それでも自分の頬が赤く染まるのが、珪太には分かった。
昼休憩が終わり店に戻ると、玲は完璧に蒼の顔に戻った。
支配人をはじめ誰一人として疑いを持っている者はいない。
ごく稀にボロが出そうになるときは、珪太がフォローを入れる。
まるで幼いころからの親友のように、二人のコンビネーションは絶妙だった。
ホールで支度をしていると、不意に玲は支配人に呼び止められた。
この男のことを、玲は生理的に好きになれなかった。
それでも努めて表情には出さず、丁寧に頭を下げる。
薄汚い笑みを浮かべ、支配人が近づいてきて肩に触れた。不快。
「明日の夜は、貸し切りだ。外務省のお偉い様が、お前を指名してみえた。」
「……。」
あ、と玲は胸の中で声を上げる。
ふと思い出したのは、蒼の言葉だった。
この店で玲が働くにあたって交わした、約束。
『議員や国の権力者からの使命を受けたら、必ず勝負に負けること』。
守らなきゃ、約束を。
今までは守ることが出来なかったから、せめて今度こそ。
「…分かりました。」
静かに頷き、礼をする。唇の端を皮肉げに上げて、支配人が笑った。
「今度こそは、上手くやってくれよ?」
その言葉の意味を理解することが出来ないまま、去っていく支配人に玲は再度頭を下げた。
遠ざかっていく背中を見つめながら、ふと思う。
それは。
蒼はここにいて、本当に幸せなのかな…。
早番だった玲は、10時には家に帰ることが出来た。
ドアを開けると同時に、いつものように迎えてくれる碧。玲の肩から力が抜ける瞬間だった。
「ただいま、碧っ!」
ぎゅっ、と飛びつくように碧に抱きつくと、しっかりと抱き留めてくれる。
「おかえり、玲。」
この「おかえり」に、玲は何度救われただろう。
時々ふと胸に過る「本当に自分は此処にいてもいいのか、「S」でしか生きられないのではないのか」という不安。
そんな負の想いに苛まれても、碧の「おかえり」を聞けば、此処が自分の帰る場所だと思うことが出来るのだ。
「今日も疲れただろ?さ、みんな待ってるぞ。」
「うん!」
碧の額に自分の額をこつんと合わせてから、笑ってダイニングへと走る。
「おかえり、玲。」
ダイニングに足を踏み入れると同時に、一斉に声がかかる。
茶碗を運んでいた朱と、テーブルについている紅と、そしてお椀に汁物をよそっていた蒼と。
「ただいま!」
心の底からの笑顔を浮かべると、途端に蒼の表情に安堵の色が浮かんだ。
「お疲れさま。」
お椀によそったすまし汁を玲に手渡し、蒼が席に着く。
その顔色をちらと盗み見れば、やはり少しずつ、日に日に血の気がなくなってきている。
もともと白い肌は、今は何処か透き通っているようにさえ見える。
痩せすぎて手の甲に浮き出た血管も痛々しい。
どうして、蒼だけこんな目に遭わなければならないのだろう。
できることなら、代わってやりたかった。自分は所詮、「できそこない」なんだから。
「玲…どうかした?やっぱり疲れてるんじゃ…。」
じっと見られていることを心配して、蒼が尋ねてくる。
「そんなことないよ!だってさ、大好きな珪太を独り占めできるんだもん。」
迂闊に心配そうな表情を見せてしまった失態を誤魔化すように、力強く答える。
惚気としかとれない発言に、蒼がくすりと笑って肩を竦めた。
なるべく、蒼にはこれ以上心配をかけたくない。蒼の負担になりたくない。
それに、蒼の代わりをすることは、玲にしてみれば自分の居場所を作ることでもあるのだから。
蒼の役に立っている限り、自分は此処にいてもいいのだと、そう思うことができるから。
「それより、ちゃんと蒼は大人しくしてた?ダメだぞっ、ふらふら出歩いたら。」
あまり食欲がないらしく、おかずに手を付けようとしない蒼がこくりと頷いた。
「大丈夫。家から出てないよ。」
「うん、でももう少しよくなったらさ、散歩や買い物くらいならいいと思うけど。ね、碧。」
「…ああ、そうだな。」
碧も僅かに微笑んで賛同してくれた。
「ありがと。」
蒼も、微かに笑う。
けれど。
その表情に、玲は気づいてはならなかった感情を見つけてしまった。
信じたくないような感情。
「玲?」
小さな動揺も見逃してくれない蒼の不安げな声に、なんでもないと首を横に振り、
好物の肉じゃがを頬張り笑う。
ああ、気づきたくなかった。あんな感情、蒼が抱いているなんて。
諦め、なんて感情。
絶対に死なせない、そう胸に誓う。
やっと一緒になることができた実弟。もう二度と失いたくない。
そのためになら、自分は何だってしてみせる。
隣の席の紅の手が、そっと玲の腿に置かれた。
紅も気づいてしまっているのだろう、蒼の諦めに。
もしかしたら、自分のこの決意にさえも。
少しだけ泣きだしそうになってしまったけれど、紅をちらと見て明るく笑って頷いてみせた。
柔らかな絨毯の敷き詰められた高級ホテルの長い廊下を、男は急ぎ足で歩いていた。
高層ビルの群れの中にそそり立つホテルの一室に、男はある人物から呼び出されていた。
呼び出してきた相手のことは正直詳しくは知らなかったが、
電話口で相手が話題に上らせた者の名前だけは、忘れ得るはずがなかった。
自分がずっと求め続けてきたモノ、数年前にこの手から奪われてしまったアレの名前。
暫くして、男の足が止まった。目の前には指定された番号のプレートのついたドア。
ドアをノックすると、すぐに音もなく開かれた。
そして部屋の中から出てきたのは、青白く陰鬱な印象を与える男だった。
「はじめまして、ようこそおいでくださいました。蒼クンのお義父さん。」
ホテルに招かれた男の正体は、蒼をレイプした義父、
そして、招いた男の正体は、硝だった。
翌日、玲は午後からの出勤だったが、どうしても落ち着かなくて早めに家を出た。
店に着くと、珍しいことに控室には既に同じく午後出勤の珪太がいた。
「おはようございます。」
蒼の顔で挨拶をする。
しかし、普段ならすぐに返ってくるはずの珪太の明るい声がない。
驚いて思わず珪太の顔を覗き込むと、彼はやっと玲の存在に気付いた様子で、
弾かれたように玲の顔を見、そして笑った。
「お、おはよ。」
眉を顰め、じっと珪太を見つめる玲。
問い詰めるような眼差しに、珪太が困ったように頭を掻いた。
「悪かったって、ボーっとしてて。そんなに嫌な顔すんなよ。」
「別に嫌な顔なんて…。」
ぽんぽん、と宥めるように肩を叩かれて、玲は少し笑った。
嫌なのではなく、ただ珪太のことが心配なだけなのだ。
何か悩み事があるなら、相談してほしかった。
自分たちは、友達なのだから。そして自分は、珪太のことが大好きなのだから。
「さ、着替えろよ。今日も気合入れていこうな!」
そう言って笑って見せる珪太は、既に普段と変わらない彼だった。
時計の針が約束の時間を30分も過ぎた頃、店の入り口のドアが騒々しく開いた。
店内に入ってきたのは、高級官僚らしき男が10人。
「いらっしゃいませ、ようこそおいでくださいました。」
入り口から正面、この店のメインテーブルについた玲が、深々とお辞儀をした。
その細かな所作の一つ一つまで、蒼とそっくり同じ。
二人のことをよく知る珪太でさえ、一瞬、蒼がいるのかと錯覚したほどだった。
男たちの表情や尊大な態度に、玲は官房長官と同じ色を見つけて戦慄した。
こんな男たちの遊び相手を、蒼はいつもしているのだろうか。
そうまでして、この場所に居たいのだろうか。
そこまでの価値がこの場所にあるとは、今日まで一度たりとも思えたことがなかった。
唯一、珪太がいる、ということを除けば。
客の男たちは、ルーレットでの勝負をオーダーした。
それも、ただ赤か黒かを当てるだけの、くだらない戯れ。
こんな勝負をしていったい何が面白いのか、と思った玲だったが、
店の端の方で様子を見ている珪太の表情が不意に厳しくなったことに気付いた。
あそこまで厳しい珪太の表情を、初めて見た。
少し怖いくらいの眼差しが、自分の目の前に立つ官僚に向けられている。
何かあるというのか。
しかしそれでも、ゲームを降りるわけにはいかない。
「それでは、始めさせていただきます。」
「勝った…。」
最初のターンで、男は玲が狙った通り、レッドに賭けた。
そして銀の玉は玲を裏切ることなく、レッドのポケットに落ちた。
男の感嘆と、周囲のざわめき。それは尋常なものではなかった。
「やった、やったぞ!ついに私が初めて、蒼に勝ったんだ!」
男の叫びに、息を呑む。
初めて?まさか。
一瞬、玲の瞳が大きく見開かれた。
掠めた光は、「S」にいた頃の彼の眼光。獣に似た、獰猛な瞳。
玲の耳に、病室での蒼との約束が蘇る。
『議員や国の権力者から指名を受けたら、必ず負けること。』
けれど、この店の中の様子はどうだ。
支配人を筆頭に、ディーラーの一人ひとりに至るまでが、
まるで狐につままれたように、呆気にとられてルーレットを見つめている。
答えが欲しくて珪太の方に視線を遣ると、気まずそうに彼は視線を逸らしてしまった。
こんなこと、今までに一度もなかったのに。
チクチクと、胸に嫌な痛みを感じる。
それでも、玲は冷静を保って目の前の男に告げた。
「レッド。…続けますか?」
男は首を横に振った。
「いやいや、君にそう何度も勝てるはずがないからな。今日はもう十分満足したよ。
貸切料金は倍額、出させていただこう。」
たった一回の勝利で満足する、そんなことがあり得るのか。
満面の笑みを浮かべた男に求められた握手に応じながら、
玲は胸の中に嫌な感情が広がっていくのを感じていた。
本当にたったの1ゲームだけで、男たちは帰って行った。
無言でテーブルを片づける玲のもとへ、笑みを浮かべた支配人がやってきた。
「いつもこんなふうに素直に私の言うことを聞いていれば、痛い目なんてみなくて済むんだ。」
玲は何も答えなかった。ただ、片づける途中のチップの束が、音を立てて崩れた。
片付けが終わると無言で玲は着替えを済ませ、店を出て行ってしまった。
焦ったのは、置いてけぼりをくらった珪太だった。
いつもだったら、玲は珪太が着替え終わるまで待っていてくれて、二人で一緒に帰る。
けれど、今日は仕事後、珪太に声をかけてくることすらなかった。
やはり、隠し通せるはずがなかったのだ、玲に。
本当は、ああいう輩に蒼が一度だって負けたことがないという事実を。
玲が蒼の代わりにカジノに勤めることになったとき、蒼が一番心配していたのは、
議員や官僚からの指名が入った時のことだった。
完璧に蒼になりきるならば、当然、彼らに勝ち続けなければならない。
しかし、その後に待っているのは――。
結局、蒼の信念、いや意地は裏目に出てしまった。
カバンを肩にかけ、珪太は盛大にため息を吐いた。
が、こんなところでしょげている暇はない。早く、玲を追いかけなければ。
探す必要もなく、玲はすぐに見つかった。
店の出口を出たところで、玲は独り佇んでいた。
気づいた珪太が声をかける前に、玲は顔を上げた。
射抜くような真っ直ぐな眼差しに、咄嗟に珪太は言葉を失くす。
一片の感情さえ見つけられない整った顔。
きゅ、と手首を掴まれる。
痛いほどではなかったが、抗おうとも思わなかった。
そのまま玲は無言で、珪太を何処かへ導くように、少し足早に歩き始めた。
連れてこられた先は、人気のない路地裏。
「知ってたんだよね。」
確信に満ちた、けれど弱々しい呟き。大きな瞳が、じっと珪太を見つめている。
ああ、今にも泣きだしてしまいそうだ、と珪太は思ったけれど、
言うべき言葉も見つけられなくて、ただ玲を見つめ返した。
玲の眼差しが、痛い。それでも、真実を伝えるわけにはいかない。
それが、蒼との約束だから。
そして、それ以上に。
玲を、傷つけたくない――。
こんなにも純粋で疑うことを知らない彼を。
玲はもう十分に傷ついてきたはずだ、あの「S」という牢獄の中で。
こんなことをしても意味がない、と知りながら、珪太はそっと、玲の髪を梳いた。
一瞬、驚いたように目を見開いた玲だったが、クスクス笑い出し、
そして髪を撫でる珪太の手を取った。
「あーあ、ダメだな、俺。珪太のことなんて、嫌いになっちゃえたらいいのに。」
「えっ!」
思わず珪太がぎくりとするような台詞を吐く玲。
そして、珪太のだらしなく伸びた髪を掴んで耳元に唇を寄せると。
「でもね、俺、珪太のこと大好きだから、珪太がダンマリでも許してあげる。」
そう囁いて、頬に軽くキスをした。
予想だにしなかった出来事に、パニック状態に陥る珪太。
口をパクパクさせてみるものの、言葉が出てこない。
そんな珪太を尻目に、可愛らしい声で「おやすみ」と告げると、玲は路地裏から姿を消した。
珪太がなんとか落ち着きを取り戻したときには、玲の姿はもう何処にもなかった。
右手でキスされた頬を押さえて、やれやれと頭を掻いた。
男にキスされたのに不思議と嫌な気持ちはせず、
むしろ、何処か嬉しく思っている自分に少し呆れながら。
珪太と別れてから、玲はまっすぐに家に帰った。
いつもよりも二時間近く早い帰宅に、迎えた蒼は何があったかすぐに理解したようだった。
おかえり、と何も気づいていないように言いながら、
安堵を微かに漂わせている姿に、玲は確信した。
やはり、蒼はいつもあんな連中に負けたりしないのだ、と。
そうすると、支配人の言葉が余計に胸にひっかっかる。
『いつもこんなふうに素直に私の言うことを聞いていれば、痛い目なんてみなくて済むんだ』。
「今日は碧、帰りが遅いんだって。」
玲の分と自分の分の夕食を運びながら、何気ない様子で蒼が言った。
「ふーん、だから今日は俺が帰ってきても、碧が迎えにきてくれなかったんだ。」
「そういうこと。アイツ、玲が帰ってくると飛んでいくもんな。」
「あ、蒼、それって…、嫉妬?」
「はぁ?…だ、誰が…。」
「あー、照れてる照れてる。蒼、可愛いなあ。でも、大丈夫、俺は珪太一筋だもん。」
「なんだよ、惚気かよ…。」
肩を竦める蒼。こんな何気ない会話が愛しい。
けれど。
「そうそう、今日はね、蒼を指名してきた官僚の貸し切りの日でさ。」
いつまでも隠しているわけにもいかず、口火を切る。
「…ちゃんと、約束守ったから。」
その瞬間、蒼の緊張が解けたのが微かに伝わってきた。
「そっか、ありがとう。」
安堵のこもった柔らかな口調、少し微笑むような口元。
やはり何かある。
蒼があんな約束を自分にさせたのには、嘘をついているのには、理由がある。
蒼は何か、隠している。
しかし、本人を追求しても無駄なことくらい、既に玲は学習していた。
これ以上の詳しい事情を知りたければ、あのカジノで探るしかない。
そしてもしも、もしも自分の予想通り、カジノの人間が蒼に酷いことをしているのならば――。
机の下に隠した拳を、ぎり、と握りしめる。
蒼を傷つける者は、何人たりとも許さない。
何があっても、どんな相手からも、自分は蒼を守るのだと決めたのだから。
「失礼します。」
都心にそびえ立つ高層ビルの最上階に、碧はゆっくりと足を踏み入れた。
以前は監視するように必ず黒服がついてきたものだが、
今は顔パスでこの部屋に入ることが許されるまでになった。
この部屋の主の信頼の厚さが、こんなところからも窺える。
「ああ、碧。来てくれたんだね、ありがとう。」
碧を呼び出したこの部屋の主――瑛李は、いつものように執務用の椅子に座っていた。
だが、少し様子がおかしい。
几帳面に着こなしたスーツも、ほのかに漂う香水の香りも普段と変わりないのに、
瑛李の顔色だけが酷く悪いのだ。
そして動作も何処か緩慢な印象を受ける。
些細なことかもしれないが、いつも鋭利な印象の彼らしくないそんなところが気になった。
足早に瑛李の前に歩み寄り、碧は尋ねた。
「どうかなさったんですか?顔色が悪いようですが。」
一瞬、瑛李は驚いたように碧を見つめたが、すぐに唇を少し綻ばせた。
その表情は、この巨大な「組織」を束ねる人間とは思えないほど、弱々しかった。
やはりどう考えても、様子がおかしい。
失礼とは百も承知で、不躾につぶさに瑛李を眺める。そして、気づく。
「その腕は!」
慌てて隠そうとしたその腕を、無理やりに掴んだ。
切り裂かれた白いシャツが、赤い血に染まっている。
瑛李が眉を顰めたが、碧はその手を放しはしなかった。
「酷い傷だ…、すぐに治療します。」
専門は内科だが、傷の縫合くらいはできる。
治療の間、瑛李はずっと唇を噛みしめ、押し黙っていた。
それは傷口を縫い合わせる痛みに耐えているのではなく、
もっと別の痛みに耐えている姿のように、碧の目には映った。
「終わりましたよ。多分これで大丈夫ですが、鎮痛剤と抗生物質も処方しておきます。」
「…ありがとう。」
浮き上がった額の汗を怪我をしていない左手で拭って、わずかに瑛李が笑んだ。
「こんなことで、君を呼んだわけではなかったのにね。」
「…この怪我、どうなされたのですか。」
暫く瑛李は黙り込んで、包帯の巻かれた腕を見ていたが、やがて吐息を吐くように。
「…信頼していたファミリーに、斬りつけられたんだよ。」
「それは…。」
「私が二人きりで会うほど信頼していた部下が訪ねてきてね…、いきなり切りつけてきたんだ。」
伏せられる、瞳。
「それだけ、だよ。その男はね、私を殺しにきたんだ。
誰の命令でかは、知らない。
…でも、それでもね、彼は結局、私を殺すことなく、去って行ってくれたよ。」
次に顔を上げた瑛李は、相変わらず微笑んでいた。
けれど。
「少しだけ、悲しかったな…。」
この微笑。
この、今にも泣き出してしまいそうな儚い微笑は、碧にとって最愛の人のそれに酷く似ていた。
ざわり、と胸が騒ぐ。
以前、この人のことを珀に似ていると思った。
だが、いまこうして目の前にいる瑛李は、珀よりも蒼に良く似ていた。
あの、辛いことを胸に押し込めて無理やり笑う優しい少年に。
まるで蒼にするように反射的に伸ばしかけた腕を、慌てて引く。
その手を、今度は瑛李の手が掴んだ。
「私に、触れてくれないかい…?」
投げかけられた声は、震えていた。
瑛李の指が意図を持って、碧の指に絡みつく。
「…本当はね、私はとても弱い人間なんだ。
それにね、こんな地位にいるけれど、私は君…いや貴方より、ずっと子どもなんだ。
精神的にも、実際の年齢もね。私は貴方より、年下なんだよ。」
意外だった。だが、言われてみれば落ち着いた表情の中にも、僅かに幼さが漂っている。
ただ、自分がこれまで気づかなかっただけで。
そんな若さで、独り、この人は「組織」を引っ張っているのか。
両の手で、瑛李が碧の手を包み込む。そして。
「…助けて欲しいんだ、貴方に。もう私独りでは潰れてしまう。
お願いだから、「組織」の幹部に…。」
碧も、瑛李の真剣な眼差しを見つめ返し、そして。
「…もう少しだけ、考えさせてください。」
今までとほとんど変わらない答え。けれど、その声には微妙な温度の変化があった。
碧が部屋を出ていき暫くすると、瑛李はくだらなそうに血の付着したナイフを机に投げた。
「…純情な人だ、年に似合わず。」
瑛李自ら作った傷を縫うあの真摯な眼差しに、彼の心が揺らいでいるのを知る。
「こんな猿芝居で貴方をこっちに招き入れられるなら、安いモノなんだよ。」
独り言が、宙に漂い消える。
頬に浮かぶ、狂気じみた笑み。
「もうすぐだ。もうすぐ、アイツに復讐できる…。
最愛の人間を奪われる絶望を、アイツは知ればいいんだ。」
闇の底から湧き上がってくるような低い笑い声が、暫くの間、静寂を塗りつぶした。
玲が初めて官僚たちから指名を受けてから、一週間が過ぎた。
蒼は買い物袋を両手に、秋風の吹く心地良い道を歩いていた。
ここのところ、体調が随分安定してきたので、碧からやっと外出許可が出た。
久しぶりの外の空気は清々しく、気持ちも自然と浮足立った。
同時に、そろそろカジノにも復帰できたら、という考えも浮かんでいた。
一週間前、玲は自分との約束を守ってくれたが、これ以上、騙されていてくれるとは思えない。
もしかすると、既に本当のことに気づいているかもしれない。
ならば余計に、早く自分がカジノに戻る必要があった。
思いつめた玲が、何か行動を起こす前に。優しい兄だから、玲は。
そんなことを考えているうちに、家に着いた。門を開け、ドアへと向かう。
カタン――。
ドアの前でポケットから鍵を取り出していると、不意に背後で門の開く音がした。
続いて近づいてくる、コツコツという靴音。
蒼の背中に緊張が走った。
「S」?いや、違う、この気配は。この覚えのある気配は――。
ガクガクと蒼の体が震え始める。鍵が上手く鍵穴に入らない。
忘れ得るはずがない、この気配。体の一番奥の部分が、植え付けられた種が疼く。
そして。
「会いたかったよ。ずっと探していたんだよ、蒼…。」
ガシャン――!
力の抜けた蒼の指先から滑り落ちた買い物袋が、けたたましい音を立てた。
大きく目を見開いた蒼が、悲鳴の代わりに唇から零した言葉は。
「お義父さん…。」
目の前に立っていたのは、かつてこの躰を支配し蹂躙した、あの義父だった―――。
守るようにドアを背に身を固くする蒼に、あの頃と変わらない一見すると惹きこまれるような優しい笑みを浮かべ、
義父は躊躇いもなく蒼との距離を縮めてきた。
この笑顔と、教師という職業に、幼い蒼は騙されたのだ。
その甘さ故に、この躰は穢れてしまった。
「予想通り、いや、予想以上に綺麗になったね…。」
温かな微笑を浮かべる瞳の奥には、邪な欲望。
逃げなきゃ、と自らを叱咤し、タイミングを計る。もう少し、あと一歩。
けれど、あと半歩の距離で立ち止まった義父の告げた言葉に、蒼は自ら逃げることを放棄した。
「お前が逃げたら、玲くんが身代りになるけれど、いいのかな?」
「ッ!!」
何故、この男が玲のことを知っているのか。まさか。
「玲?誰のことですか?」
平静を装って聞き返しても、義父は笑みを深めただけだった。
ぐっ、と掴まれる腕。引き寄せられて、耳元で。
「お前にそっくりで綺麗な子だね。無垢なところがまたいい。
あの子、私がお前の義父だって言ったら、素直に心を開いてくれるだろうね。
そんな可愛い子を一から開発していくのも、いいものだ。
…それとも、どうする?『この男は危険なヤツだ、俺を商売道具にした男だ』と告白する?
そうしたら、彼は怒るだろうね。怒って私を殺してしまうかもしれない。
これ以上、彼が罪を重ねるのは、嫌なんだろう?」
呆然と義父を見つめる蒼は、血の気を失っていた。僅かに開かれた唇が、小刻みに戦慄いている。
義父は、玲のことを知り尽くしていた。
逃げ場を失った蒼は、諦めたように全身から力を抜いた。完敗、だった。
「さあ、蒼。家の中に入れておくれ。久しぶりにゆっくり話をしよう。」
こくり、と蒼は人形のように首を垂れた。
玄関に入り、ドアを閉めると同時に、蒼は義父に押し倒された。
「やめてください!」
抵抗する蒼。義父はにぃと笑い唇を舐めた。
「いいのか?お前が私を受け入れなければ、玲くんに身代りになってもらうだけだけど。」
青褪めた顔で、蒼は悲鳴に近い声を上げた。
「玲は…、玲は何も知らない…!お願いです、玲には手を出さないでください!」
「そのために、どうすればいいか…、分かっているだろう、蒼。」
嫌だ、もうこの男の思うがままに弄ばれるのは。
穢され、犯され、蹂躙されるのは。
けれど、玲を守るためなら。他に方法がないのならば。
この男が此処を訪ねてきた時から、分かっていた。
自分は、この男から逃げることができないのだと。
あの地獄のような日々が、再び訪れたのだと。
待ちきれない、とばかりにシャツの裾から差し込まれる手。耳朶を這う舌。
「そうそう、あの正義の味方気取りのお義兄さんは頼れないよ。
今度こそ、彼は私を殺してしまうだろうからね。」
びく、と蒼の体が跳ね上がるように震えた。
あの日の、この男の元から自分を救い出してくれた日の碧を思い出して。
憎しみを滾らせ、銃口をこの男に向けた碧は、明らかに殺意に支配されていた。
本気でこの男の命を奪うつもりだった。
それを必死の思いで蒼は止め、あのときはなんとか正気を取り戻してくれた碧だったが、
しかし、次がないことはあの日の狂気じみた眼差しが雄弁に語っていた。
碧の手を「S」以外の人間の血で汚したくない。碧が堕ちる姿を見たくない。
だから。
「分かり…ました。貴方の好きにしてください。
ただ、せめて俺の部屋…、ひゃぅ!」
「待ちきれない、此処でしろ。」
自分の勝ちを確信した義父の口調は、昔のような命令調に戻っていた。
為す術もない蒼はそれ以上は決して逆らうことなく、
ただシャツを脱がす義父の慣れた指先を感じながら、そっと瞳を閉じた。
玄関ホールに響くのは、男の戯言と、蒼の震えるような喘ぎ。
やがて、泣き声に似た、悲しげな嬌声と―――。
すべてが終わり、玄関先でぐったりと横たわる蒼を、
既に勝手にシャワーを浴び、身支度まで整えた義父が見下ろす。
ぴくぴくと裸体を痙攣させ、蒼はただぼんやりと霞む視界に映る義父を見つめていた。
義父の指が、掬うようにその顎に伸びた。
「次からは外に呼び出すから、ちゃんと来るように、いいね?」
「…はい。」
結局、こうするより他ないのだ。自分はこの男から逃れることなどできない。
「それにしても、久しぶりにしてはよかったよ。お前のカラダも随分喜んでいたし。
どうした、碧お義兄さんは抱いてくれなかったのか?ククッ、いいお義兄さんだ。」
「ッ!!」
見開かれた蒼の瞳には、夜の闇のように黒い憎悪。
この男さえ、殺せば――。
「ん?私を殺すかい?…やはり所詮、お前はただの殺人鬼なのか。」
けれど、見透かしたように笑う義父に、体から力が抜けて行った。
人間で、いたいから。殺人鬼には、なりたくないから。
殺せ、ない。
黒く胸を染めていく、絶望。
乞われた再会を約すくちづけにも、従順に蒼は応じた。
カジノの更衣室に、感情のない玲の声が響く。
「…何か。」
彼の周りには、取り囲むようにディーラーたちが立っていた。
「やっと珪太のヤツとお前の休みが違う日になってくれたな。
…最近、妙にべったりじゃねえか、お前ら。本当にデキちまったのか?」
ゲラゲラと下品な笑い声を上げるディーラーたちに、玲は表情ひとつ変えることない。
今の玲は「蒼」だから、ということもある。
だが、それ以外にもこの男たちからさりげなく探り出したいことがあったから。
玲の予想通り、無反応な態度にディーラーたちはいきり立った。
「いつもスカした顔して、いい気になるなよ…?」
眉を吊り上げてぐっと顔を近づけてきたディーラーを無視し、
そしてホールの方へと歩き出す。
その肩を、ディーラーたちのリーダーである長髪の男が掴んだ。
「いつまでそんな態度してられると思ってんだ?
…支配人の野郎に殴られんのがイヤで、権力に屈した負け犬が!」
玲の瞳が初めて僅かに見開かれた。過る光は、獣のような殺意を帯びて。
さすがの男も何か察したのか、玲の肩から手を放して一歩後ずさった。
「どういう…意味ですか…?」
喉の奥から絞り出すような、いつもの彼に似ない声と、射抜くような眼差し。
見慣れない「蒼」の様子に、ディーラーたちは一瞬狼狽えたような仕草を見せた。
が、すぐにリーダーが口を開いた。
「言葉通りの意味に決まってるだろ?
ずっとお偉い先生方を容赦なくこてんぱんにしちまって、
その罰として、支配人のおっさんに殴る蹴るされてたお前が、
こないだわざとあの官僚に負けやがっただろ?
それは支配人のおっさんに屈したってことだろうが。
そりゃあ、あんなヤツに痛い目に遭わされるなんて、ごめんだろうがよ。」
やっぱり、アイツ、蒼に…!―――
もう玲の瞳にはこのくだらないディーラーたちなど全く映っていなかった。
ただ、あの支配人の残忍さを漂わせた笑みを思い出し、怒りで微かに身を震わせた。
絶対に、絶対に、許さない。
黙ったまま俯いてしまった玲に興味を失くしたのか、
ディーラーたちはぞろぞろと更衣室から出て行った。
そして、入れ替わりに入ってきた人影は。
「蒼。」
この声。反吐が出るような声の主。
支配人、だった。
今すぐにでも制裁を加えてやりたい気持ちをなんとか押し留め、玲は顔を上げた。
先日同様、馴れ馴れしく肩に置かれた手をへし折ってやりたい衝動は、
しかし、冷静な復讐心が押さえつける。
「明後日なんだが、またお前に指名が入った。
この前と同じように、上手くやってくれよ?」
どろっとした欲望に淀んだ眼差しが向けられる。それでも玲はただ、こくりと頷いた。
チャンス、だ。
この男が蒼に何をしたのか、確かめるための。
その結果次第では、腕をへし折るくらいでは足りないほどの制裁を加えてやる。
命を奪うことだって…。
控室から出ていく支配人の背中を、玲は「S」にいた頃と同じ、
暗い殺意に満ちた瞳で見つめていた。
今日も、結局何も収穫は得られなかった。
家に帰ってきた碧は、車のエンジンを切りながら、深くため息を吐いた。
蒼のこと、蒼の病を治す方法、今日もまた何も良い情報を得ることはできなかった。
遺伝子学の博士を訪ねたが、やはり遺伝子地図がなければこれ以上の成果は期待できないとのことだった。
博士に会ってからは、硝の行方を探すべく、情報屋のところへ行った。
けれど、情報屋のもとにも硝の足取りに関する情報は、一切入っていなかった。
こうなったら、自分の足で探すしかないだろう。
けれど、どうすれば硝の行方を調べられるのか、適切な方法が浮かんでこない。
もっと冷静になれ。もっと計略を巡らせろ。いつものお前なら、それが出来るはずだ。
そう、自分に言い聞かせる。
けれど、焦りばかりが先に出て、上手く行かない。
なんとかしなければ。刻限は、だんだんと近づいている。
車から降りて、碧は妙なことに気付く。ダイニングの電気が、消えているのだ。
いつもだったらこの時間は蒼が夕食の準備をダイニングでしている時間だ。
ぞくり、と碧の背に悪寒が走った。急いで鍵を開け、家の中へと飛び込む。
「ただいま!」
いつもよりも大きな声で帰宅を告げても、蒼の返事はない。
いつもだったら点けてある廊下の電気も消したまま。
慌てて靴を脱ぎ捨て、ダイニングへと向かう。
けれど、やはりダイニングもキッチンも電気が消えていて、不気味なほど人の気配がなかった。
何かがあったのではないか、そんな嫌な予感。杞憂ならばいい。
半ば無意識に碧は2階の蒼の部屋へと駆け出していた。
「蒼っ!」
ノックさえ忘れ、勢いよく蒼の部屋のドアを開けた。
カーテンによって月光さえ遮られた、真っ暗な部屋。
しかし、微かな人の気配は感じられる。
足早に、蒼がいるであろうベッドへ歩み寄る。
「蒼…。」
「あ…。」
ベッドの中、蒼は布団に包まって、小さく蹲るような形で横たわっていた。
碧の呼び声に何処か怯えたような瞳が向けられる。
見て分かるほど震えている細い体。
「どうしたんだ、具合が悪いのか。」
なるべく優しい声で尋ねるつもりだった。怯える蒼を、安心させるように。
けれど、実際に発せられた声は、何処か咎めるような厳しい物だった。
しまった、と思っても後の祭りで、蒼の唇は戦慄くばかりで声にならない。
ああ、なんて自分は馬鹿なのだろう。
また、蒼を傷つけてしまう。守る、なんて言っておきながら。
どうしてこんなときにさえ、優しい言葉をかけられないのだろう。
こんなに大切に想っているのに。
やがて、僅かな沈黙を挟んで、ゆっくりと蒼がベッドから身を起こした。
そんな些細な動作でさえ、緩慢で何処か辛そうだ。
細い肩を震わせ、何度か呼吸を整えるような仕草をしてから、蒼は困ったように微笑んだ。
「ごめん、碧、心配かけて。ちょっと気分が悪かったから寝ていたら、変な夢を見て…。
その続きなのか、って思っちゃって…。
違うよね?ちゃんと碧、俺の目の前にいるんだよね?」
蒼がおずおずとその手を碧に差し出してきた。
碧はただ、その手をとって頷くことしかできなかった。
それだけで、たったそれだけのことで、蒼の体から目に見えて緊張が解けた。
「よかった…。」
ホッ、と息を吐く蒼の様子が、あまりにもいつもの彼とかけ離れていて、
碧は一抹の不安を覚える。
自分の知らないところで、何か蒼をここまで恐怖に陥れるような出来事があったのではないか、と。
「何か、あったのか?」
ビクン、と震える細い肩。しかし、それに抗うように蒼は静かに首を横に振った。
「ううん。…ちょっと疲れただけ、大丈夫。」
「そうか…。」
何もなかった、なんて到底考えられない。それでも、言えないのだろう。
本当に自分のことを信頼しているなら、どんなことでも言って欲しかった。
いや、そもそも蒼は自分のことを本当に信頼しているのか。
唇の端を苦い笑みが過る。
そんな碧の想いに気づく様子もなく、蒼はベッドから立ち上がろうとする。
「ごめん、早く夕食の用意しなきゃ。」
「いや、無理はしなくていい。俺が冷凍モノで何とかするから。
今日はもう、早く休め。」
それを制して、碧は今できる限りの笑みを浮かべてみせた。
一瞬だけ、迷うような素振りを見せた蒼だったが、やがてこくりと素直に頷いた。
「ごめん、よろしく。」
「ああ、まかせておけよ。じゃあ、おやすみ。」
トン、と自分の胸を叩いて、碧は踵を返した。
が、その腕を。
「あ…。」
蒼の青白い手が、掴んでいた。
驚き振り向いた碧の視線の先には、泣いてしまいそうな真剣な眼差しで、
自分を見つめてくる蒼がいた。
蒼は今にも消えてしまいそうなか細い声で。
「碧…、あの…、あのっ、俺のこと、抱きしめて、くれる…?」
青い闇に沈む部屋に、その声は鮮やか過ぎるほど響き、無論碧も聞き逃してしまうことはなかった。
こんなに弱々しく壊れてしまいそうな蒼を、碧は初めて見た。
どんな言葉を蒼が求めているのかも分からず、ただ碧は望まれるがまま、優しく優しく抱きしめた。
腕の中で、徐々に蒼の体の力が抜けていくのが分かる。もう震えてもいない。
「あったかい…。」
碧の胸に頬を寄せて、蒼が笑むように呟く。
その無防備で何気ない言葉に、胸のしこりが解けていく。ああ、ただ愛しい。
「ありがとう、碧。…こんな俺のこと、ちゃんと抱きしめてくれて。」
そっと顔を上げた蒼が、ふわりと微笑んだ。
けれどそれは、笑顔よりもよほど泣き顔に近くて、切なさと哀しさしか、感じられなかった。
蒼は、何かに追いつめられている。だが、自分にそれを語ろうとはしない。
そういえば、至近距離になって初めて気づいた、蒼の体からほのかに香る、嗅ぎ慣れない香り。
いや、違う、遥か昔に嗅いだ香り。胸をざわつかせる、嫌な記憶。
忘れろ、と過去の自分が言う。蒼の傍にいたいのならば、忘れろ、と。
「ありがとう、もう大丈夫。」
何処か名残惜しそうに離れていく蒼の体を引き留めようと伸びた手は、
しかし、あの香りに阻まれてそれ以上延ばすことが出来なかった。
「ゆっくりおやすみ。」
踵を返し、部屋を出る碧。
幸いにして、蒼のうなじに刻まれた赤い痕跡は、闇にまぎれてその目に触れることはなかった。
その日の夕食は、異様に重い空気に包まれていた。
碧は考え事でもしているのか、難しい顔をしたまま、あまり食事に箸を伸ばそうとしない。
玲は玲で、いつもに似ず無言で、ただ黙々とご飯を掻きこんでいる。
蒼は体調が悪いらしく、部屋で眠っていて、ここにはいない。
あまりに居心地の悪い雰囲気に、朱はちらと紅に目を遣った。
紅も同じようなことを考えていたらしく、小さく頷いた。
何があったのだろう、今朝までは、別段普段と何も変わりなかったのに。
蒼の体調が悪くて心配しているから、というのはある。
だが、それだけでは腑に落ちない。
そもそも、蒼だ。
彼はここのところ目に見えて体調を回復させていたし、今朝など最近では一番顔色が良かった。
それなのに、今は体調不良を訴えて眠っている。
何か嫌な予感がする。とてもとても悪い予感が。
自分たちも、もっと積極的に動き出さなければならない時期が、来ているのかもしれない。
紅に目配せをすると、彼もまた頷いた。
味気ない夕食を済ませると、朱はさっさと碧と玲を追いやった。
片付けを手伝ってもかえって邪魔になる、と歯に衣着せぬ物言いで吐き捨てると、
二人とも何も言わずに自分たちの部屋に戻って行った。
「絶対におかしいよね、二人とも。」
「ああ。」
それきり二人の会話も途切れて、皿を洗う音だけが響く。
「ああ、そうだ。」
沈黙を破るように、珍しく紅から口を開いた。
「硝が、東京に戻っているようだ。」
こくり、と朱は頷く。
紅が碧同様、必死になって硝を探していることを、朱は知っていた。
硝は蒼を生かす為のキーパーソンだからだ。
そして同時に、紅が蒼に対して抱いている想いもまた、朱は知っていた。
おそらく受け入れられないと分かりながらも、大切に抱えている想い。
親友として、兄弟に近い存在として、時々見ていて苦しくなるほどの純な想い。
つらいだろうに、それでも紅は蒼の傍にいて、彼を守ることを願っている。
自分とて、蒼を守りたい、蒼にもっと長く生きてもらいたいという気持ちは同じだ。
「…東京のどこにいるか、は分からなかったが、な。」
「それでも大きな前進だよ。」
勇気づけるようにわざと明るく言うと、紅も少しだけ笑った。
「そうだな。」
その後は再び沈黙。
朱は胸の中で呟く。
もっと、情報を集めないと。
このままでは、最悪の時が訪れてしまう。そうなる前に、なんとしても硝を見つけなければ。
そっと唇を噛みしめる朱。
隣をちらと窺うと、紅も厳しい眼差しで窓の外の闇を見つめていた。